からだの声を聞く
今、意識的にダイエットを始めている。
太ったわけではないのだが、今よりもっとスタイルを整えたくなったからだ。(つまり、もうちょっと美しくなりたくなった)
それで、前から気になっていた、お腹と腰回りのお肉を落としたいなあ、と思ったら、身体の方がお蕎麦とかフルーツとか、太りにくくて消化のよいものを提案してくるように(自然と食べたくなるように)なった。協力的な身体である。
からだの声を聞く、ということを、数年前から試みている。
「痛みは身体からのメッセージである」
という説を人に聞いてから、痛みはもちろん、ちょっとした身体の違和感や不調、いつもと変わった感覚に耳を傾け、身体が伝えたがっていることを、感覚で読み取るようにしてきた。
最初のうちこそ、半信半疑だったが、続けていくうちに、だんだんとその精度が上がり、今では身体からの訴えが、具体的に言葉でイメージできるまでになってきた。
こうなってくると、身体が本格的な不調や病気に陥る前に、僅かな違和感や、微かな痛みの段階で気づき、対処できるようになったから、とても助かっている。
腹痛ひとつ取っても、身体はいろいろなことを教えてくれる。
睡眠が足りないのか、食べ過ぎなのか。食べるペースが適切でないのか。内臓が疲れているのか。排泄が滞っているのか。精神的なストレスを抱えているのか。ストレスとは我慢なのか、不安なのか、緊張なのか。それを、どのように対処したらいいのか。
そういったことに、いちいち耳を傾け、身体の要求に応えるようにしてきたら、身体の方もよりはっきりと伝えてくるようになり、今ではほんのちょっとしたことでも
「まだ睡眠が足りないんです。もう少し横になっててください」
「消化が間に合ってないので、まだ食べないでもらっていいですか」
「排泄が滞っています。デトックスを促すものを食べてください」
「お腹が冷え過ぎて動きが悪いです。温めてください」
「無理に働かされたのでストライキ中です。しばらく内臓機能が麻痺します」
「起き抜けに食べ物入れられるとビックリするんで、やめてもらっていいですか」
などと、このように痛みで訴えてくる。
こうなると、身体と会話ができているようで、純粋に面白い。
ちなみに、どのようにして声を聞くかだが、わたしの場合は、気になる場所に直接手を当てる。そして、手から感じ取れる反応を読み取る。
最初はぼんやりとした感覚だが、なんとなくこうかな? と、自分なりに読み取っていくうちに、だんだんとはっきりわかってくるようになる。後は練習量だ。
不思議なことだが、ただ手を当てるだけでも、身体は何らかの反応を返してくる。
腸が蠕動を始めたり、ゴロゴロ鳴り始めたり。時には、筋肉がピクリと反応したり、骨が勝手に動くような感覚がすることもある。
意識的にそれらを拾うようにしていくと、身体というのは、実に饒舌にメッセージを送っているのだ、ということがよくわかる。
それらをひとつひとつ受け取り、応じていくと、どんどん身体とコミュニケーションが円滑になり、自分の身体と仲良くなれるような気がする。
身体とコミュニケーションが取れ、身体と仲良くできているとき、痛みや不調だけでなく、あらゆる身体感覚はメッセージだ。
よく「身体が言うことを聞かない」と言う人がいる。
これは、実際には逆ではないか、と思う。
身体の言うことを、わたしたちが聞いていないのだ。
身体はいつだって、わたしたちに訴えかけている。
痛みで、違和感で、ちょっとした感覚の変化で。時には、はっきりとした不調で。
それらは、身体を自分の意思でコントロールしたい人にとっては「反逆」と映るだろう。自分の思い通りに身体が動かない、身体が自分に逆らっているのだ、と。
しかし、そうではない。
身体とは、自分自身だ。(当然のことだが)
だから、身体はいつだって、自分自身のために動く。自分を生かすために動いている。肺も心臓も、内臓も。他のどんな器官も。自分の意思とは関係なく、勝手に呼吸をし、血液を循環させ、代謝を行う。
身体はいつだって、自分を生かそうとしている。
痛みや不調が生じるのは、その機能に滞りが出ているサインだ。
身体の機能に負荷がかかっているので、それを正常に戻して欲しい、そのために生活や行動を変えて欲しい、というメッセージを送られているのだ。
そのサインに逆らっているから、痛みが消えない。機能も悪化する。
ただそれだけのことで、つまり自分(身体)に対する反逆行為を行っているのは、自分(思考)ということになる。
身体と上手にコミュニケーションできていないとき、おそらく人の意識の中で、身体と思考が分離している。
もっと言うと、自分自身とは思考(脳)のことであって、身体はその付属品、というような感覚に陥っているように感じる。
だから、思考だけで身体の動きを全てコントロールが可能なように、錯覚してしまう。
しかし実際には、わたしたちは、思考も身体も全て引っくるめて「自分自身」だ。
身体だけが、別の存在なのではない。
身体が動かないとき、身体が痛みを訴えるとき、それは大抵の場合、自分(思考)が身体に無茶を要求していて、身体の機能がその限界を超えたときだ。
つまり、自分に対して協力的でなかったのは、身体ではなく思考の方だ。
身体の声を注意深く聞くようにすると、身体というのは、本当はとても、自分に協力的だとわかる。
上で、身体の痛みは思考の無茶ブリに応えられなかった結果だ、と書いたが、昔、動物病院勤務で激務だった頃、子宮に生理の日にちをずらしてくれるよう、訴えたことがある。(オペが何件も重なる日は、何時間もトイレに行けなかったりしたので)
果たして、子宮はわたしの希望通りに、生理をずらしてくれるようになった。
しかし、あまりにも何度も続けて要求した結果、ついに生理そのものが来なくなり、その半年ほど後に限界を超え、大氾濫を起こして倒れることになった。
氾濫するまで無茶をしたのは、もちろんわたしのミステイクだが、この通り、身体というのは要求すれば、できる限り、無茶にでも応えようとしてくれる。
今ではもちろん、無茶を要求するようなことはしていない。
その代わり、身体のことは身体に聞くようにしている。
腰が痛むときは、腰に負担をかけない姿勢を身体に聞く。すると、正しい立ち方を身体が教えてくれる。
最近、それで「骨盤を立てる」とはどういう状態か、初めてわかった。自分で思っていたよりも、骨盤は前に傾いていて、正しい位置に治すと、腹筋のインナーマッスルにかなり効く。
「いい姿勢」とは、身体の機能をまんべんなく使う、無駄のないかたちなのだとわかった。これをキープするだけで、無駄な肉はつかないし、所作も美しくなる。長年の悪習慣があるから、キープ出来るようになるまで、今のところ積み重ねが必要だけど。
他にも「お尻の筋肉をつけるには、どんな動きをすればいいか?」みたいな質問にも、最近は応えてくれるようになった。外反母趾と内反小趾で開かない足の指も、同じやり方で動かす実験中だ。
今でも、コンビニスイーツの新作が出たりすると、好奇心に負けて「糖分は腸壁を痛めるから控えてって言ったじゃないですかああ」とお腹に叱られたりしているが、少しずつ、身体の声に応えるダイエットを実践していこうと思う。
必要なことは、身体がきっとわかっているから、わたしはそれに応えるだけだ。
(これが難しいっちゃ難しいのだが)
また後に、経過を報告できたらしようと思う。
犬は媚びるから嫌い?
あまり知られていない事実だが、わたしが最初に就いた仕事はドッグトレーナーだ。
わたしがトレーナーとして、初めて仔犬から育てた子。
ええ。ここまでブログを読んだだけでも、占い師、家庭教師、ドッグトレーナーと、わたしは既に三つもの肩書きを披露している。
最初の記事で「肩書きを持たないことにした」などと言い放っているが、本当は「千の肩書きを持つ女」とでも改名した方が適切なくらい、まだまだ多くの肩書きを有している。おかげさまで職務経歴書を書くのが大嫌いである。項目多過ぎて!
なのでもう、何屋さんとか名乗るの面倒臭いんですよ。
「結局何してる人なんですか?」とか聞かれるの、もう嫌なんですよ。
なんだっていいじゃないですか。
肩書きで人を判断する時代は終わったんですよ。
何をしているかより、どういう人かで、その人を見ましょうよ。
いつか、職業ではなく、わたしの名前そのものが肩書きとなる日を夢見ています。「美輪明宏さん」とか「叶恭子様」みたいな。(職業:戸田朝海です。って言いたいな!)
話が大きく反れました。
こんな経歴なので、当然わたしは犬が大好きだが、猫も同じくらい大好きなので(というより、犬猫に限らず爬虫類から虫に至るまでいきものは全部好き)よくある「犬派か猫派か?」という議論には興味がない。
しかし、よく猫派の方が言う
「犬は媚びるから嫌い。自分勝手な猫が好き」
というご意見には、やや疑問を感じる。
「犬は人間に媚びる」というのは本当によく聞くが、果たして本当に犬は媚びているのだろうか?
わたしは、幼少期から犬に多く触れているし、専門学校時代には学校で40頭以上の犬の世話をして、卒業後も警察犬訓練所、介助犬訓練所、動物病院に勤務して、数だけなら100頭近くの犬に触れてきたが、犬が媚びていると感じたことは一度もない。
どちらかというと、猫派の人が猫に感じているのと同じく、犬だってかなり自分勝手だ。
「従順な犬よりも、自由気ままな猫の方が好き」というフレーズもよく聞くが、犬が本当に従順だったら、トレーナーやしつけ教室はいらないはずだ。
実際に「うちの犬が言うことを聞かなくて困っている」という飼い主さんは、日本に星の数ほどいるだろう。(その割に、プロのトレーナーにしつけを学ぶ文化が、日本にあまり根付いていないところが、悩ましいところだ)
本当に、犬が従順で人に媚びる性質を持つのなら、このような悩みは存在しないはずだ。
つまり、犬が「媚びる」というのも「従順である」というのも、犬をよく知らない人の、誤ったイメージに過ぎない。
ではなぜ、そんなイメージが根付いてしまうのだろう?
それは彼らの、ストレートな愛情表現によるものではないか、と思う。
犬たちの愛情表現は、ストレートだ。
尻尾をブンブンブンブンちぎれんばかりに振り回し、全身で喜びをあらわにし、全力で突進して飛びかかり、顔中ベロンベロン舐めまくる。ときどき、嬉しさのあまりオシッコを漏らしたりする。(たまに興奮しすぎて倒れるやつまでいる)
この、過剰とも言える愛情表現は、犬が苦手な人や、犬に慣れていない人からすると「引いて」しまうものかもしれない。
では、彼らはここまでの愛情表現を、人間に「媚びる」ためにやっているのだろうか?
「媚びる」という単語を、辞書で引いてみよう。
こ‐びる【媚びる】《上一自》
1.女が、なまめかしい態度を示して男の心をひこうとする。 2.相手に気に入られようとしてごきげんをとる。へつらう。おもねる
辞書を見ると、このように定義されている。
つまり「媚びる」とは
「相手から愛されるために、相手の気に入る態度を取ること」
であり、いわば相手の愛を得るために、愛を(あるいは愛に見える態度を)差し出す、という、一種の「取引」だ。
犬が人間に、あれほどの愛を表現するのは、果たして「媚びる」ためなのだろうか?
自分が人間に気に入られたいため、愛情をもらいたいための行動だろうか?
わたしは、違う、と考える。
彼らはただ、愛しているだけなのだ。
目の前にいるヒトが、ただ好きなだけ。
好きだから「好き!」を表現しているだけ。
愛しているから「愛」を表現するだけ。
彼らは言葉を持たないから、それを全身で、全力で、ただ思いっきり表現しているだけなのだと思う。
動物病院に勤めていた頃、人間に虐待されて怪我をした犬が、運ばれてきたことがある。飼い主に、壁に投げつけられて背骨を骨折し、下半身不随になってしまったパピヨンだ。
しかし彼は、そんな仕打ちを受けたにも関わらず、ヒトを恨んでいなかった。
目が合えば嬉しそうに笑い(犬も笑います)動かない下半身を引きずって、前足だけで近づいてきて挨拶してくれた。
あのときの彼の笑顔は、愛想良く振る舞えば人間から気に入ってもらえるとか、懐いたら優しくしてもらえるとか、そんな打算に基づいたものでは、決してなかった。
ただヒトが来たから笑ったのだ。
ただ単にヒトが好きだから。
彼の下半身が動かなくなったのはヒトのせいだが、そんなことは気にも留めず、ただヒトに会えて嬉しい、という気持ちだけで笑って、近寄って身体をすり寄せてくれた。
これが、犬といういきものなのだなあ、と思う。
もちろん、全ての虐待された犬がこうではないし、ヒトに怯えたり、激しい怒りを向けるようになった犬もいる。それはそれでごく自然であり、当たり前のことだと思う。
ただ、多くの犬は、ヒトに何をされたとか、ヒトが何をしてくれるとか、そんなことは全く関係ないところで、ただヒトが大好きで、その気持ちだけで生きている。
わたしには、そう感じられる。
思うに、彼らは感情表現が豊かなのだ。
喜びがあれば、喜びを100%で表現するし、悲しみは悲しみで、怒りは怒りで100%の表現をする。(時と場合で、常にMAX100なわけではないけど)
そして、好意はだいたい120〜200%くらいの表現をする。
これが多分、わざとらしく見えて「媚びている」と誤解される要因なのだけど、彼らは表現が全開なだけで、そこに嘘は微塵もない。表現を盛っているわけでも、まして、相手の反応を期待して、作為しているわけでもない。
むしろ、飼い主がやってきたと思って、ドアの向こうを見つめて全力で振られていた尻尾が、来たのが別人だとわかった途端、露骨に垂れ下がる様子なんかを見ると、犬ってとことん嘘のつけない生き物だよな、と感じる。
わたしは、犬といういきものを見ていて、ときどき無性に「負けた」と感じるときがある。
それは、彼らの打算のない、全力の愛情表現に対してだ。
一切の見返りを期待せず、ただ目の前の相手が好きだ、という思いひとつだけで、丸ごと全身全力でぶつかっていく姿勢。
わたしは、こんなふうに人を愛することはできない、と思う。
ここまで無防備に、ここまで素直に自分を晒して、全開で人にぶつかることは、多分わたしにはできない。だから圧倒される。だから尊敬する。
そう。わたしは犬を尊敬しているのだ。
書いてて思ったんだけど、これは「パーフェクト・レボリューション」で、ミツに感じた敗北感と似てるね。
うん。こういうイキモノを、わたしは尊敬してやまないのだな。
「愛というものを具現化したら、犬のかたちになるような気がする」
と語っていたのは、確か女優の石田ゆり子さんだったと思うが、わたしも同感だ。
犬といういきものを見れば見るほど、彼らは愛そのものだという気がする。
わたしも、もし次に人を愛するときは、犬のようでありたい。
***
余談ですが、石田ゆり子さんの“ネコスタグラム”、ほんと大好きで、いつも楽しみに拝見しています。
はちみつ色のハニオくんと、足袋を履いた“しろねこ”のたびちゃん、ゴールデン・レトリーバーの雪ちゃんが本当に可愛くて、ゆり子さんとの優しい日常にほっこりします。動物好きは見て♡
石田ゆり子さんと言えば、ほぼ日で連載していた、こちらのコンテンツもおすすめ。
チョコレート色のラブラドール・レトリーバー、はなちゃんのお話です。
一文無しで八丈島に
二年前の今頃、わたしは一文無しで八丈島にいた。
理由は全く褒められたものではないが、全てにリセットをかけたくなったからだ。言葉面は多少格好いいが、要は仕事から逃げ出したくなったのである。
当時、家庭教師の仕事で全く稼げておらず、生活は困窮を極めていた。
わたしは毎日支払いに追われ、督促の電話に怯え、ひとときも心休まる暇がなかった。
とにかく毎日、何かに追われているような感覚に怯え、怖くて怖くて仕方なかった。
あるとき、わたしは考えた。
「わたしは、何が怖いのだろう?」
いつもいつも怖いと感じていた。
しかし、実際のところ、わたしは何に対して、こんなにも怯えているのだろうか?
考えてみたら、その正体を明確にしたことはなかった。
わたしは、本当は何を怖がっているのだろう?
「お金がなくなるのが怖い」
一番はそれだった。
ではなぜ、お金がなくなると怖いのだ?
「ここ(マンション)を追い出される」
そうだね。追い出されるとどうなる?
「路頭に迷う。寝るところがなくなって、わたしは死んでしまう」
そうか。
究極のところ、わたしは死ぬのが怖いのだ。
そして、お金がなくなったら死ぬと信じている。
だからお金がなくなるのが怖いのだ。
そこで、わたしは考えた。
「お金がなくなるのが怖い。なら、お金をなくしてしまえば、その恐怖はなくなるのでは?」
名付けて「恐怖迎え撃ち作戦」だ。
お金が減っていくのが怖いのなら、これ以上減らなくすれば(ゼロにすれば)「減っていく恐怖」はなくなる。(はずだ)
そして、もうひとつ。
「お金がなくなったら死ぬ」
と思い込んでいるが、それは果たして真実だろうか?
これも、実際にお金をなくしてみれば、わかることだ。
果たして、わたしはその2つの問いにチャレンジすべく、実際にお金を使い果たし、一文無しになってみた。
そして、家具類は全て人に譲り、残りは処理業者にお願いして、マンションの部屋も引き払った。あとは八丈島への飛行機チケットだけ持って、ほとんど身一つで旅立った。
結論から言うと、わたしが今こうしてブログを書いていることが、この問いの答えである。
お金がなくなっても、わたしは死ぬことはなかった。
それどころか、一度も路頭に迷うことなく、一度も飢えることなく、好きなときにいつでも車で送り迎えしてもらえ、現地の新鮮な野菜と魚を大量にいただき、毎日健康な食事をして、充分な睡眠を取り、週に一回は露天風呂に入り、ときどき食事を奢ってもらえる、という、天国のような毎日が待っていた。
ついでに、外は緑に囲まれ、10分も歩けば海に辿りつき、いつでもTシャツで充分な気温という、パラダイスのような環境である。
なんでこんなことになったか?
というと、ひとえに八丈島の人々が優しい人ばかりだったから、に他ならない。
一応、事前に当面泊まるところと、仕事を紹介してもらっていたのだけど(この辺りは抜かりなく。まだここまで無策で挑めるほど弾けてなかったw)手持ちのお金は一切なくて。
わたしが何をしたか、というと、
「素直に白状する」
「自力を捨てる」
この二点だった。
「わたし、訳あって一文無しなのですが、どうしたらいいでしょうか?」
と、素直に現状を伝えた。そして、自分で対処を考えるのをやめ「どうしたらいいでしょう?」と、相手に判断を委ねた。
そうしたら、周りは助けてくれる人たちばかりになった。
お金を貸してくれる人、好きなときに車出してあげるから呼んでいいよ、と言ってくれる人、食料のお裾分けをくれる人、お小遣いをくれる人までいた。
さらに驚いたことに、何やら訳ありで、一文無しで東京から突然やってきた、得体の知れない女であるわたしに、否定的なことを言う人は誰もいなかったのだ。
それどころか
「いやあ〜、君は自由でいいなあ」
「わたしもそんな生き方をしてみたいよ」
「一文無しだなんて、カッコいいですね!」
などと、若干褒められたりした。まじか。
それまでのわたしにとっては、「お金がない」というのは、恥以外のなにものでもなかった。
しかも、自ら起業しておいて、稼げてないなんて。
お金がない、ということは
「わたしは事業で失敗しました」
「わたしにはビジネスセンスがありません」
「ついでに才能もありません」
と暴露するようなもの。絶対に人にバレてはいけない、最大級の汚点だった。
だから、たいへん愚かしいことだが、わざわざちょっといいドレス(アウトレット品)を着て自撮りをしてみたり、華やかな交流会に参加して、これ見よがしにSNSにアップしてみたり、有名人との繋がりをアピールしてみたり、あらゆる手を使って「売れているわたし」を演出したりしていた。(今思えば、全てバレていたに違いないが)
それほど「売れていない自分」「稼げてない自分」「お金がない自分」をさらけ出すのは、怖かった。
すなわち、弱い自分を見せることが、怖くて仕方なかったのだ。
だから、この旅は「お金がない現実」に挑戦する意味と、
「弱い自分を人前にさらけ出す」
という、もう一つ大きなチャレンジがあったのだと思う。
いきなり占いの話になるが、わたしの太陽星座は獅子座で、数秘術は1だ。
共通する性質は「負けたくない」「プライドが高い」「我を通したい」である。
この性質を強く持つわたしが、人前に弱みをさらすことは、ある種バンジージャンプを飛ぶのに等しい、勇気と覚悟を必要とするチャレンジだった。
ある意味、お金がなくなることそのものより、こちらの方が大きなバンジーだったのではないか、と思える。
しかし運命は、その勇気に見合うだけのギフトを、ちゃんと用意してくれていた。
お金がない現状をさらしたわたしを、誰ひとり否定することはなかった。
人に迷惑をかけ、何かとお世話になるばかりだったわたしを、誰も責めなかった。
自分が自分を否定しなければ、世界(他者)が否定してくることはない。
自分が自分を責めない限り、世界(他者)から責められることはない。
という宇宙の法則を、身を持って体験することができた。
これはとても大きなギフトだ。
しかし、それ以上に
「弱いわたしでもいい」
「役に立たないわたしでもいい」
「結果を残せないわたしでもいい」
「迷惑をかけるわたしでもいい」
「してもらうばかりのわたしでもいい」
「何も返せなくていい」
これを体感できたこと、これが何より大きかったのだと思う。
死ぬのが怖い、と思っていたが、究極わたしは多分、弱くなるのが怖かったのだと思う
いや、違う。弱いのは、最初から弱かった。
弱い自分を人に知られることと、弱い自分を認めることが怖かったのだ。
どこまでも見栄っ張りな自分が恥ずかしい。
こんなわたしが、
「弱い自分でも受け入れてもらえる」
「何もない自分でも優しくしてもらえる」
この体感を知れたことは、本当にありがたいギフトだった。
このおかげで、わたしの恐怖の殻は、おおかた破壊された。
八丈島には、結局一ヶ月くらいしかいられなかったんだけど(仕事をクビになってw)わたしにとっては、とても大切な場所で、思い出だ。
山も海もあるし、人はオープンで親切だし、魚も野菜も美味しいし、海好きには絶好のダイビングスポットで、大物が釣れる猟場でもある、ついでに海を一望できる絶景の露天風呂に500円で入れる素晴らしいところなので、よかったらぜひ一度行ってみて欲しい。
ちなみに、最後になるが
「お金がなくなれば、お金がなくなる恐怖はなくなるか?」
という問いについては、実体験に基づいた検証の結果、答えはNOであった。
さらに実は、この二年間の間に、もう4回ほど一文無しになっているのだけど(一度経験したら、抵抗がなくなってしまってw)一度も怖くなくなることはなかった。
お金がなくなると、毎回怖い。
なんと言うか、生命を脅かされる、というような、本能的な恐怖に襲われる。
やはり人間も動物であるとは言え、現代社会においては、お金と生命は結びついているからじゃないかと思う。だから、これは多分、回数を重ねても怖くはなくならないんじゃないかな。
とは言え、これはわたし個人の体験によるものなので、他の人なら怖くなくなることもあるのかもしれないし、何なら最初から全然怖くない、という人もいると思うので、人それぞれとしか言いようがない。
自分の場合はどうか、と考えるのなら、実体験してみるのが一番確実だと思う。(オススメは絶対にしないが)やるなら自己責任でお願いします。
八丈島でご機嫌なわたくし。
後悔しない選択
後悔しない選択とは、なんだろうか。
よく、迷っている人に対して「後悔しない選択をしなさい」というアドバイスをする人がいる。
しかし、どういう選択が後悔しないのか。後悔しない選択とは何なのか、どうやったら後悔しない選択ができるのか。これを伝える人はとても少ない。
よく言われるのは、
「やった後悔と、やらなかった後悔」
である。
「人は、やったことは後悔しないが、やらなかったことは後悔する」という一説がある。
また「やった後悔は長続きしないが、やらなかった後悔は一生残る」という説もある。
これらを見ると、行動に起こしたことは、絶対に後悔しないようにも思える。
しかし、本当にそうだろうか。
やってしまったことを一生悔い続ける人だって、世の中にはいる。
ということは、これらは「一説」ではあるのだろうが、絶対とは言えない。
先日のことだ。
不二家のショウケースの前で、ケーキを物色していたときの話である。
これはあんずとももさんのケーキ
元々はチーズケーキ狙いで行ったのだけど、その日はたまたま、昨日まではなかったショートケーキが置いてあった。
正直、ショートケーキに一瞬で心惹かれて、めっちゃ食べたくなったんだけど、買いに来たのはチーズケーキ。一応、それと比べる。
チーズケーキにも三種類くらいあって、スフレチーズケーキ、NYチーズケーキ、チーズタルトと、どれも美味しそうなのが並んでる。
この中で一番金額が高いのは、ショートケーキ。
安いのはスフレチーズケーキ。
ショートケーキは、値段で思い止まった。
値段の安さで選ぶなら、スフレチーズケーキだ。
しかし、チーズケーキは他に二種類もあって、それを買うならいやこっち......いや、やはりこっち......と、気持ちが迷い始めてしまう。チーズケーキは、どれも味や食感が微妙に違って、どれも美味しいから迷ってしまう。値段も、それほど大きな差はない。
だから、頭の中では当たり前のように「三種類のチーズケーキのどれにするか」という論争が始まっていたのだけど、選びながら思った。「これは、どれを選んでも後悔しそうだ」と。
そこで、わたしは発想を変えた。
「どれを選んでも後悔するのだとしたら、一番好きなものを選ぼう」
すると、驚くほど自然に買うものが決まった。
ショートケーキだ。
その瞬間、面白いことが起こった。
チーズケーキの中から、どれか一つを選ぼうとしていたときには、ひとつを選ぼうとする度に浮かんでいた「他のにしておけばよかったかも」という後悔の念が、ショートケーキに決めた途端に、一切なくなった。
あるのは「これにしてよかったー♡」という、満足感だけだった。
どういう選び方をすれば後悔しないか。
この体験からわたしが学んだ、ひとつの説はこうだ。
「一番好きなものを選べば、後悔しない」
「一番」好きなもの、「一番」欲しいもの、「一番」大事なものを選ぶこと。
ひょっとしたら、人が本当に喜びを感じるのは「一番」のものだけで、「二番目」以下のものは、実はそれほど大きな差はないのかもしれない。
だから、「二番目」以下のものを、どれほどよく吟味して、どれほど真剣に悩んで選んだとしても、やはりそこには後悔が生まれてしまうのではないだろうか。
それは
「あれにすればよかった、これにすればよかった」
という後悔ではなく
「一番を選べばよかった」
という後悔だ。
それが一番でないなら、あれにしようがこれにしようが、どちらにしろ後悔するのだろう。
そう考えると、後悔するのは「一番」ではなかったからだ。
逆に言うと、後悔しそうだ、と感じるなら、一番ではないものを選ぼうとしているからだ。二番目以下の選択肢の中で、なんとか妥協点を探そうとしているから、ではないだろうか。
だとすれば、後悔しないように、と選択を迷っているとき、自分が一番、本当に、選びたいものはその中ではなく、別のところにあるのかもしれない。
二番目以下で妥協しようとしているとき、人は「安全」を求めている。
「後悔」という嫌なことを回避しようとして、守りに入っているのだ。
しかし皮肉なことに、後悔を避けようとすることによって、人は「後悔する選択」をしてしまうことになる。
このように考えていくと、
「後悔しない選択をするためには、後悔を避けようとしないこと」
ということになる。
「後悔しない選択」をするのではなく「一番選びたいものを選ぶ」こと。
頭の中に「後悔」がよぎるなら、その選択肢の中に、おそらく「一番」はない。
「後悔しないか」
「どれが一番マシか」
そのような、消極的な選択の中に「一番」はない。
心が喜びと共に選ぶもの。
それが「一番」だ。
それを選ぶことができたら、多分、後悔はしない。
ブレブレでもw
たとえ後悔することになったとしても。
昔、個人で家庭教師を始めて数年経った頃。
ブログやFBのフォロワーも増え、だんだんと有名になり始めてきた頃の話である。
あるとき、わたしよりも売れている有名な方々から
「調子に乗って舞い上がると、後で落ちたときに痛い目に遭う。それはとても辛いことだから、悪いことは言わない。調子に乗るのはやめなさい」
というメッセージを、なぜか立て続けにいただくことがあった。
そのときのわたしが調子に乗っていたのかどうか。
当時もわからなかったが、今でもわからない。
ただ、自分を知ってくれる人が増え、応援してくれる人が増え、もらえる反応の声も増えたことが、わたしはとても嬉しかった。そして、その嬉しさを素直に表現していた。これは事実だ。
そして、それまでわたしは人から注目される経験など、ほぼ無に近かったので、確かに舞い上がっていたのも事実だ。
そりゃそうだろう。
今まで経験したこともない喜びを感じているのに、冷静に受け止めるなんて無理だよ。わたしだって人の子だもの。
だから、嬉しさのあまり「嬉しい!ワー!ギャー!」と喜んでいたのは事実だが、それが「調子に乗っていた」ことになるのかどうかは、よくわからない。そして、何を忠告されているのかも、よくわからなかった。
「調子に乗らないように気をつけろ」って、具体的に何をどう気をつければいいのか、わからないんだよね。喜ばなければいいのか? 静かにしてればいいのか? 普通通りでいろ、ということ?
ともかく、たった一つ確かなことは、わたしはそれによって歩みを止めてしまった、ということ。
だって怖かったんだもん。
実際、舞い上がっている自覚はあったから、そういうとき特有の、自分を見失いそうになる感覚や、自信がついたことによって、今までの自分から変わっていく感覚はあった。
そして、わたし自身にも
「こんなことがあっていいのだろうか? これは悪い前触れではないだろうか?」
みたいな怖れがあった。
今になって思えば、だからこそ、そのような「忠告」がたくさん目に入ったのだろうし、それを「進んではいけない」と解釈してしまったのだろう。
わたしに、そのメッセージを送ってきた人たちに罪はない。
彼女らが伝えたかったことや、そのメッセージを送った意図について、今さらあれこれ考えることにも意味はない。
当時、わたしがそれをどう受け取って、どう行動したか。大事なのはそこだ。
で、それらを踏まえて、今たったひとつ、後悔していることがある。
それは
「なぜ、あのとき調子に乗っておかなかったのだろう」
ということだ。
彼女たちの言うことを信じるなら、わたしは当時、あのまま行けば、高いところからドスンと地面に突き落とされ、たいへん痛い思いをするはずだった。
忠告を聞き(正しく聞けたのかは、わからないが)歩みを止めたわたしは、ドスンと落ちて痛い目に遭うことはなかった。確かに。
これは失態を回避できたということであり、客観的に見れば、よかったことだ。
でも、今になって、すごく思うのは
調子に乗って舞い上がったあと、ドスンと地面に落とされたら、どんな痛い目に遭うのか知りたかったなーーーー
という後悔である。
こればっかりは、経験してみなければわからない。
だって、だって、
「調子に乗って舞い上がり、その後ドスンと落とされる経験」
なんて、そうそうめったに出来ることではないのだ。
これが一番の「今になって」後悔している理由だ。
だって、この経験は「無名の人間が、少し売れ始めて調子に乗ったとき」にしか、味わうことができない。つくづく、惜しいことをしたなーーーと思っている。
もし次に同じチャンスが来たとしたら、絶対にそのまま調子に乗り続けて、どんな目に遭わされるのか試してやる! と、密かに決意しているのだけど、なかなか調子に乗れそうな事態がやって来ない。
だから、あれは本当に、貴重な経験をするチャンスだったのだなーーと、今になって、惜しく思うわけだ。
だいたい、初めてビジネスした人間が、ちょっと売れてきたくらいで調子に乗って、その後コロッと足元掬われて地面に転落、なんてネタとして面白すぎるじゃないか。
いやーそのネタ欲しかったわーーーー
絶対それ、後から人に話したら、大喜びされるに違いないのに。
「経験は全てネタになる」というのは、某動かない漫画家のセリフだが、ネタにするためだけではなく、物事というのは、経験を通さなければ、真に学ぶことはできない、と考えている。
知識を頭に入れるだけなら、本を読んだり、人の話を聞くだけで事足りる。ある意味、それも一つの「学び」と言える。
だが、その学びを身につけたいなら、腑に落として自分のものにしたいのなら、やはり身を持って経験することが必要だと思う。というより、経験してしまうのが、一番手っ取り早い。
わたしに忠告をくれた彼女たちは、その後どんなことが起こるのか、自分の経験で知っていたのだろう。
でもそのために、わたしはその経験を得ることができなかった。
残念に思っているのは、そこだ。
失敗をしないように、悪いことが起きないように、辛い、痛い経験をしないように、
「それはやめておきなさい」
と忠告するのは、愛なのだと思う。
しかし、こうも思う。
失敗し、痛い思いをし、最悪な出来事に陥り、それを自分で経験し、自分の心と身体で味わい、経験値として身につけること。(必ずしも、それを乗り越えなくとも)
それも愛ではないか、と。
少なくとも、やっぱりわたしは自分で経験したかったし、実際に何が起きてどうなるのか、自分で見てみればよかったなーと思っている。(当時、それを選ばなかったのは、自分だけどね)
そして、調子に乗っていたら実際に地面に落ちるのかどうか。それを痛い、辛いと思うのかどうか。それも、実際に経験したわたしにしか、本当はわからないことなのだ。
だから思う。
ある程度、人生経験を重ねると、他人を見ていて「先」が見えることがある。
「あ、そんなやり方では失敗するな」
「あー、それをやるとこうなっちゃうんだよねえ......」
「それはやらない方がいいんだけどなあ......」
こういうものを見ると、つい「忠告」してあげたくなる。
「それはやめなさい」
「やっても意味ないよ」
「どうせ失敗するよ」
こんな言葉をかけたくなる。純粋な善意からだ。
だけど、その言葉は相手から「経験」を奪う。
相手がそれを「身を持って経験する」というチャンスを奪ってしまう。
実際それでどうなるかは、相手がそれをやってみないことにはわからない。
そして、それを「不幸な経験」とするかどうかは、100%その相手が決めることだ。
だから、わたしは人のやることに対して「それはやめておきなさい」ということは、極力したくないと思っている。
たとえ後悔することになったとしても。
後悔することすらも、その人にとっては貴重な経験なのだから。
後悔すればいいじゃないか。
どん底に落ちればいいじゃないか。
好きなだけ舞い上がればいいじゃないか。
調子にだって乗ればいいじゃないか。
後で全部ネタにすればいいじゃないか(笑)
経験してみなければ、わからないことがある。
経験してみて、初めてわかることもある。
だから、どちらかというとわたしは、失敗して、転んで、痛い目を見てしまった人に
「わたしも同じ失敗をしたことあるよ。痛いよね」
と、手を差し伸べる人間でありたい。
そして、それと同じだけ、いやそれ以上に。
失敗して、転んで、痛い目を見ることを、自分に許していきたい。
まあ、そう気にしなさんな。
水だけど飲もう。
不可能なんて可能にしろ!————飛べ!〜パーフェクト・レボリューション〜
映画「パーフェクト・レボリューション」を観てきました。
まずは、この予告編。
ヒロイン、ミツのモデルになった女性、子宮委員長はるさん(子宮委員長はるオフィシャルブログ「子宮委員長はるの子宮委員会」Powered by Ameba)のことは、もう何年もファンをやっていますが、この予告編を観て最初に思ったのは、
「はるちゃんは、昔からはるちゃんだったのだ......!」
という驚きでした。
ブログで見るはるさんの文章は、穏やかで知的な印象ですが、それだけではなく、性を通してにんげんの深い本質部分を捉える洞察と、それを自分の人生と肉体を使って、容赦なく追求し、えぐり込み、さらけ出していく強靭さ、徹底して己を貫くまっすぐな姿勢を感じています。
そして、そこから勝手に感じていたはるさんの人間性ーーどこまでも自分に正直で、純粋で、無邪気で、自然現象のように素のまま、気分次第に全開、自由気まま、爆発的に素直で感情的な人なんじゃないかな......と思っていたら、そのイメージそのままの姿をしていたのが、映画のミツでした。
(実際にはるさんにお会いしたことはないのですが、本物のはるさんはもっと落ち着いていて上品な方だそうです)
まことに勝手なイメージなのですが、そんな印象を持ちつつも、どことなく心の奥底で、
「はるちゃんも最初からはるちゃんだったわけではなく、少しずつ今のはるちゃん像になっていったのでは」
と思っていた節があったのですが、この予告編を見て、打ち砕かれました。
やっぱり最初から、はるちゃんははるちゃんだったのだ!(二度目)
すごいなあ......と思う反面、どこか引け目のようなものも感じました。
それは、わたしはここまでぶっとんで生きることはできない、という劣等感と、ここまでリアルにぶっとんで生きてる人がいたら怖い!という感覚でした。
思えば、多分それは、わたしの中にある「さらけ出すこと」に対する恐怖だったのでしょう。
さて。予告編の感想だけで長くなりました。
本題に入ります。
このミツというキャラクター、はるさんの婚約者であるリュウ博士(八木龍平オフィシャルブログ「リュウ博士の自分で考えるスピリチュアル」Powered by Ameba)が「台風のような女性」と、そして元夫である岡田哲也さん(心身調律セラピスト 岡田哲也オフィシャルブログ「で、ほんとはどうしたいの?」Powered by Ameba)と、元カレである一明源さん(〜直感的源論〜)が「ジェットコースター」と評されていましたが、実際に観てみて「まさにその通り」と思いました。
なんというか、台風がジェットコースターに乗ってやってきた、というか(笑)
ミツの行動を見ているときの体感が、まさにジェットコースターに乗っている感覚なんですよ。
なに......?
なんなのこれ......?
ど、どうすんの......?
どこまで行っちゃうの......?
え、それはマズいでしょ......!
いや、危ないって!!
ちょっと待って!!
やだ!怖い!!
危ない!!
怖いって!!
でも......でも......なんか楽しい!!♡
こう、なんだろうな。頭はものすごく怖がるんです、ミツの行動を。ミツという存在を。やばいでしょ、ダメでしょ、それは無理でしょ、って騒ぐ。
でも、お腹の底の底の部分は......間違いなく、喜んでる。
そうだよ、こうでなくちゃ!!と叫んでる。
一種のエクスタシーに似た感覚。
一番、すげーーなーー!と度肝を抜かれて印象に残ったのが、タイトルにも入れたこのセリフ。
「不可能なんて可能にしろ!!!」
可能にしろ、て。
可能にできるよ、でも可能にしよう、でもなく「しろ!!!」って(笑)
この命令形がものすごく潔く感じて、腹にスカッと来ました。
すげーーーーなーーーーこの人は。
そして、その後の「飛べ!!!」の言葉通り、飛んで見せたミツ。
惚れ惚れしました。かっこいいわ。
こうやって可能にしていくんだ。
可能ならやる、なんてレベルではもちろんなく。
可能性を探していこう、とかでもなく。
そんな言葉が生温く感じるくらい、強烈にいのち丸ごとぶつかるんだ。
その姿勢が、まるで生きた弾丸のようで、完全に撃ち抜かれました。
次に印象深かったのは、主人公クマピーの実家のシーン。
親族同士の閉塞した人間関係、そこにいる人たちの人物造形が、あまりにもリアリティがありすぎて、苦しくなります。
あの、演説をかます叔父さん?とかね。いるよなーーこういう人。
でも、あの人も善意の人なんですよね。あそこに多分、悪人はひとりもいなくて、みんなそれぞれの善意で動いていて、そして、みんな「正しい」ことを言っている。
うん。正しいよなあ。それが正しい、まっとうな、普通の意見だよなあ。
そう思いながら聞いていました。
みんな「正しい」
でも誰ひとり「ほんとうのこと」は言っていない。
全員が全員、自分やお互いを縛り合って、すごく苦しそうに生きているな、と感じました。
正しくあろうとして、みんな苦しい。
いや、違うな。制限された幸せ、いや、もっと言うと「最低限不幸ではない生き方」に、自分を押し込めようとして、窮屈に息苦しそうに生きている。
あの閉塞感を打開するには、ミツのような爆発力が必要になるのだろう。
そして、その閉塞をよしとする人には、ミツのような人物は危険物になる。
レストランでクマを差別した客に、掴みかかったミツ。
あの怒りを爆発させた姿。
地面に引っくり返って大泣きする姿。
喜びで絶叫する姿。
どれも「いい年した大人」がやることじゃない。
でも、見ていてどれも美しいと感じた。
なんか、これが「ほんとう」だよな。って思った。
これが「ほんとうの姿」だし、本当はみんな、こうありたいんじゃないかな、って。
なんだか観ていて、無性にお腹の中が動く。
自分の中に押し込められていた「ほんとう」の何かが、動きたい、外に出たい、と動き出す感じ。
これは「革命」だけど、わたしにとっては出産、陣痛に似ていたかもしれない。(どちらも経験はないけど)
ラストシーンは賛否両論あるけど、いやいや、あれはあれでなくちゃダメでしょ。
あれでこそミツとクマ......いや、あれでこそ「子宮委員長はる」でしょ!!
そう思いました。(お会いしたこともないのに勝手にw)
最後に、再び出てくるあのセリフ。
ゾクッとしました。
ふたりを観ながら、最後は笑いながら泣いていました。
チーナ / 世界が全部嘘だとしても (LIVE)「パーフェクト・レボリューション」主題歌
この曲、最高ですよね。
理由なんてない。
理由なんていらない。
純粋な想いだけでいい。
それ以外は全部、いらない殻なんだ。
「好き」だけで動ける。
怖さがなくなった。
ミツが怖かったけど、怖さを消してくれたのがミツでした。
やっぱり、怖いのはミツじゃなくて、殻を脱いで裸になる怖さだったんだな。
怖くなりそうなとき、ほんとうの自分を思い出したいときに、また観たいなと思いました。
問答無用でなにかに火がつく映画です。
占いとは情報だ。
占いオタクというやつを、四半世紀ほどやり続けている。
一時期は、それが高じて、原宿のサロンでタロット占い師をしていたほどだ。
はじまりは、小学生のとき、雑誌の巻末にあった星占い。
そこからありとあらゆる占いを研究し、占星術から、手相から、血液型、数秘術、オーラソーマ、人相、タロット、動物占い(これは正確には個性心理学)、最近では四柱推命まで、だいたい網羅してきた。
それこそ、小中学生の頃は、ゲームセンターにあるような、信憑性のまるで危うい占いゲームで、キャーキャー言いながら相性占いなんてやっていた。
ところで、占いオタクの割に、わたしは運勢に興味がない。
自分の未来を知りたいとは、あまり思わないからだ。(先が見えている未来なんて、何が面白いというのだ)それがいい未来であれ、悪い未来であれ、その場で感じ、その時の自分の感覚で動きたい。(あるいは動かないでいたい)
あと、基本的に予定を立てて動くことができない人間なので(その場のノリと気分だけで動くから)、例えばこの日が運勢的にすごくいい日ですよ(大安とか、一粒万倍日とか)という情報があっても、ほぼ確実に活用できない。よって、運勢を知ることには、ほとんど意味がない。
じゃあ、何で占いをやっているかというと、その理由はたったひとつ。
自分を知るためだ。
たくさんの占いを本格的にやってみるとわかるけど、占い(や、診断)で「あなたはこんな人物です」と言われる内容は、だいたいどれをやっても同じ結果になる。
これは、人にはいろんな要素があるから「明るい人です」と言われても「暗いところがありますね」と言われても、どっちにしろ当たるに決まってるとか、そういう表面的な話はしていなくて(そもそも、当たる当たらないはどうでもいい)
占いを通して、各種データやホロスコープによって、浮かび上がってくる「人物像」というのがある。それは、過去数百〜数千年の叡智を用いて、統計的に分析された「1981年7月29日生まれの人物」の姿だ。
もし、自分のことが全然わからない、という人がいたら、一旦こうした占いの結果を信じてみるのも手だ。
わたし自身、多くの占いを見て、多くの人を占ってきたが、ちゃんとした(←ここ大事だけど)占いや診断の結果は、けっこうな割合で的を射ていることが多い。
何もかもを妄信する必要なんてもちろんないけど、一旦、仮に、この鑑定結果を客観的に見て「ああ、これが自分なんだなあ」と思ってみる。それだけでも、ひとつのデータ(客観的な情報)としては、なかなか面白い。
特に、複数の占いで共通して言われることなどは、より信憑性が高いと感じる。し、多くの場合、実際に自分の中に強くある要素だったりする。さらに、周りの人からも言われることだったりすると、ほぼビンゴ。
(ちなみにわたしは、どんな占い・診断をやっても「狡猾な策略家」と書かれます)(自覚はない)
わたしの場合は、鑑定の結果を一旦全て受け入れてみる。その上で、自覚があるところも、そうでないところも、自分自身の内面と照らし合わせてみる、という作業を行っています。
自覚できるところは、どういうときにその面が出てきやすいのか。その要素が、自分の中を占める面積はどれくらいか。それは、いい面なのか、悪い面なのか。
自覚できない、いまいちピンと来ないものでも、もし自分の中にあるとすれば? という視点で、自分を見てみる。
上でも書いているように、人間はあらゆる側面を持っているから、どんなことを言われたとしても、自分の中を探せば、全く見当たらない要素なんてないのだ。
あるとすれば、その要素を表に出しているか、出さないようにしているか。あるいは、自分自身がその要素を認めているか、認めていないか、だ。
もっと言うと、その要素を自分自身が、好きか嫌いか、ということなのだろう。
わたしが四半世紀にも渡って、占いによる自己分析をやり続けているのも、究極ここに行き着くのではないか、という気がする。
もともと、自分のことがよくわからない人間だった、というのもある。だから知りたかったし、誰かに教えてもらいたかった、答えを聞きたかった、というのもある。
しかしそれ以上に、わたしの場合は、自己分析が三度の飯より大好きな、自分大好き人間だった、というのが大きな理由だ。基本的に、興味関心が自分の内側を向いていて、言ってみれば、自分のことにしか興味がないナルシストなのである。
だからといって、いや、むしろ常に自分の内側に興味が向いている人間だからこそ、いつでも自分のことが大好き! というわけではなく、自分の中の傷や、欠点、人と違うところ、ネガティブな面からも目を背けることが出来ず、そこに苦しんできたと思う。
(ある意味、それをわざわざ掘り出して痛みを味わうという、マゾヒスト的楽しみがあったことも否定できない)
自分の中にある要素、側面を知ることは楽しい。
いろんな人の目を通した「自分像」を見ていくのも楽しい。
それは純粋に、研究者気質(要はオタク体質)が満たされる楽しさでもあったけれど、それ以上に、自分の中にある要素の一つ一つ、自分のあらゆる側面を、わたし自身が認めたかったからじゃないかな、と思っている。
どんな要素も、どんな側面も、全部認めて、これがわたしなんだ、と言いたかった。
そして、どんなわたしのことも、好きになりたかったのだ、と思う。
人は誰でも、自分のことを好きになりたいし、肯定したいものじゃないかな、と思っている。
でも、それで自分を丸ごと肯定できる人ならいいけど、多くの場合、自分を肯定する根拠、みたいなものが欲しくなってしまう。
そして占いは、その鍵のひとつにはなると思っている。
占いは、道具(ツール)だ。
もっと言うと、占いとは情報(データ)だ。
だから「あなたは本当はとっても素晴らしい人なのよ〜」と洗脳してくる占い師の話でも聞かない限りは、占いそのものが自分を肯定してくれることはない。
「統計によると、あなたってこういう人ですよ」
という、ただの情報に過ぎないからね。そこには肯定も否定もない。
でも、使い方によっては、自分を知るツールになるし、自己分析や自己内観の参考資料になる。それによって、自分を肯定することもできるし、自分を好きになることもできる。
もちろん、未来を知る道具にしてもいいし、人の心を読んでもいいし、何かの決定をそれに委ねたっていい。
要は使い方次第で、使い方は自分次第だ。
わたしの場合は、自分に対する興味がありすぎて、ほぼ自分を知るための道具として使っていた、というだけ。
あとは娯楽かな。タロットや占星術は歴史が深くて、趣味として単純に面白いと思う。世界史や、神話伝承を読み解くような楽しさがあるよ。
ちなみに、わたしはとことん自分にしか興味のないやつなので、これだけ占いに詳しいくせに「わたし山羊座なんですけど、どういう性格ですか」みたいな質問には答えられない。自分の項目しか見ていないから。
どうしようもねーなーって思うけど、これが自分だからもう仕方ないかな、とも思う。自己肯定の第一歩は、自分を諦めることだ。
もう一つ、占いの鑑定結果を客観的な「自分像」として見てみる、という点では、この占いサイトが面白かった。
誕生日ごとに性格を見ていくものなんだけど、わたしの7月29日生まれが、なかなかすごいことを書いてあって......(笑)
「自分」として見るなら、納得いく部分もいかない部分もあるんだけど、もしこういう人物がいたら、と考えると、わたしこの人好きだなあ、と感じた。
ちなみに一番当たってると思ったのはここ
しかし突如としてあらゆる仕事と責任を放棄して旅に出たり、急にやる気を失ったりと周囲から見ると奇怪な行動に出る事がありますので、納期などが決まっている制限付きの仕事は受けるべきではありません。
思いっきり心当たりがあるんですけど、こういうところがわたし一番、人として終わってるとこなんだよなあ(本当申し訳ない)
面白かったので、よかったら見てみてね。
こういうふうに「自分」を見てみるのも、面白い。