たとえ後悔することになったとしても。

昔、個人で家庭教師を始めて数年経った頃。

 

 

ブログやFBのフォロワーも増え、だんだんと有名になり始めてきた頃の話である。 

 

 

あるとき、わたしよりも売れている有名な方々から

「調子に乗って舞い上がると、後で落ちたときに痛い目に遭う。それはとても辛いことだから、悪いことは言わない。調子に乗るのはやめなさい」

というメッセージを、なぜか立て続けにいただくことがあった。

 

 

そのときのわたしが調子に乗っていたのかどうか。

当時もわからなかったが、今でもわからない。

 

 

ただ、自分を知ってくれる人が増え、応援してくれる人が増え、もらえる反応の声も増えたことが、わたしはとても嬉しかった。そして、その嬉しさを素直に表現していた。これは事実だ。

 

 

そして、それまでわたしは人から注目される経験など、ほぼ無に近かったので、確かに舞い上がっていたのも事実だ。

そりゃそうだろう。

今まで経験したこともない喜びを感じているのに、冷静に受け止めるなんて無理だよ。わたしだって人の子だもの。

 

 

だから、嬉しさのあまり「嬉しい!ワー!ギャー!」と喜んでいたのは事実だが、それが「調子に乗っていた」ことになるのかどうかは、よくわからない。そして、何を忠告されているのかも、よくわからなかった。

 

 

「調子に乗らないように気をつけろ」って、具体的に何をどう気をつければいいのか、わからないんだよね。喜ばなければいいのか? 静かにしてればいいのか? 普通通りでいろ、ということ?

 

 

ともかく、たった一つ確かなことは、わたしはそれによって歩みを止めてしまった、ということ。

 

 

だって怖かったんだもん。

実際、舞い上がっている自覚はあったから、そういうとき特有の、自分を見失いそうになる感覚や、自信がついたことによって、今までの自分から変わっていく感覚はあった。

 

 

そして、わたし自身にも

「こんなことがあっていいのだろうか? これは悪い前触れではないだろうか?」

みたいな怖れがあった。

 

 

今になって思えば、だからこそ、そのような「忠告」がたくさん目に入ったのだろうし、それを「進んではいけない」と解釈してしまったのだろう。

 

 

わたしに、そのメッセージを送ってきた人たちに罪はない。

彼女らが伝えたかったことや、そのメッセージを送った意図について、今さらあれこれ考えることにも意味はない。

当時、わたしがそれをどう受け取って、どう行動したか。大事なのはそこだ。

 

 

で、それらを踏まえて、今たったひとつ、後悔していることがある。

 

 

それは

「なぜ、あのとき調子に乗っておかなかったのだろう」

ということだ。

 

 

彼女たちの言うことを信じるなら、わたしは当時、あのまま行けば、高いところからドスンと地面に突き落とされ、たいへん痛い思いをするはずだった。

 

 

忠告を聞き(正しく聞けたのかは、わからないが)歩みを止めたわたしは、ドスンと落ちて痛い目に遭うことはなかった。確かに。

 

 

これは失態を回避できたということであり、客観的に見れば、よかったことだ。

でも、今になって、すごく思うのは

 

 

調子に乗って舞い上がったあと、ドスンと地面に落とされたら、どんな痛い目に遭うのか知りたかったなーーーー

 

 

という後悔である。

こればっかりは、経験してみなければわからない。

 

 

だって、だって、

「調子に乗って舞い上がり、その後ドスンと落とされる経験」

なんて、そうそうめったに出来ることではないのだ。

 

 

これが一番の「今になって」後悔している理由だ。

 

 

だって、この経験は「無名の人間が、少し売れ始めて調子に乗ったとき」にしか、味わうことができない。つくづく、惜しいことをしたなーーーと思っている。

 

 

もし次に同じチャンスが来たとしたら、絶対にそのまま調子に乗り続けて、どんな目に遭わされるのか試してやる! と、密かに決意しているのだけど、なかなか調子に乗れそうな事態がやって来ない。

 

 

だから、あれは本当に、貴重な経験をするチャンスだったのだなーーと、今になって、惜しく思うわけだ。

 

 

だいたい、初めてビジネスした人間が、ちょっと売れてきたくらいで調子に乗って、その後コロッと足元掬われて地面に転落、なんてネタとして面白すぎるじゃないか。

いやーそのネタ欲しかったわーーーー

絶対それ、後から人に話したら、大喜びされるに違いないのに。

 

 

「経験は全てネタになる」というのは、某動かない漫画家のセリフだが、ネタにするためだけではなく、物事というのは、経験を通さなければ、真に学ぶことはできない、と考えている。

 

 

知識を頭に入れるだけなら、本を読んだり、人の話を聞くだけで事足りる。ある意味、それも一つの「学び」と言える。

 

 

だが、その学びを身につけたいなら、腑に落として自分のものにしたいのなら、やはり身を持って経験することが必要だと思う。というより、経験してしまうのが、一番手っ取り早い。

 

 

わたしに忠告をくれた彼女たちは、その後どんなことが起こるのか、自分の経験で知っていたのだろう。

でもそのために、わたしはその経験を得ることができなかった。

残念に思っているのは、そこだ。

 

 

失敗をしないように、悪いことが起きないように、辛い、痛い経験をしないように、

「それはやめておきなさい」

と忠告するのは、愛なのだと思う。

 

 

しかし、こうも思う。

失敗し、痛い思いをし、最悪な出来事に陥り、それを自分で経験し、自分の心と身体で味わい、経験値として身につけること。(必ずしも、それを乗り越えなくとも)

それも愛ではないか、と。

 

 

少なくとも、やっぱりわたしは自分で経験したかったし、実際に何が起きてどうなるのか、自分で見てみればよかったなーと思っている。(当時、それを選ばなかったのは、自分だけどね)

 

 

そして、調子に乗っていたら実際に地面に落ちるのかどうか。それを痛い、辛いと思うのかどうか。それも、実際に経験したわたしにしか、本当はわからないことなのだ。

 

 

だから思う。

ある程度、人生経験を重ねると、他人を見ていて「先」が見えることがある。

 

 

「あ、そんなやり方では失敗するな」

「あー、それをやるとこうなっちゃうんだよねえ......」

「それはやらない方がいいんだけどなあ......」

 

 

こういうものを見ると、つい「忠告」してあげたくなる。

「それはやめなさい」

「やっても意味ないよ」

「どうせ失敗するよ」

こんな言葉をかけたくなる。純粋な善意からだ。

 

 

だけど、その言葉は相手から「経験」を奪う。

相手がそれを「身を持って経験する」というチャンスを奪ってしまう。

 

 

実際それでどうなるかは、相手がそれをやってみないことにはわからない。

そして、それを「不幸な経験」とするかどうかは、100%その相手が決めることだ。

 

 

だから、わたしは人のやることに対して「それはやめておきなさい」ということは、極力したくないと思っている。

たとえ後悔することになったとしても。

後悔することすらも、その人にとっては貴重な経験なのだから。

 

 

後悔すればいいじゃないか。

どん底に落ちればいいじゃないか。

好きなだけ舞い上がればいいじゃないか。

調子にだって乗ればいいじゃないか。

 

後で全部ネタにすればいいじゃないか(笑)

 

 

経験してみなければ、わからないことがある。

経験してみて、初めてわかることもある。

 

 

だから、どちらかというとわたしは、失敗して、転んで、痛い目を見てしまった人に

「わたしも同じ失敗をしたことあるよ。痛いよね」

と、手を差し伸べる人間でありたい。

 

 

そして、それと同じだけ、いやそれ以上に。

失敗して、転んで、痛い目を見ることを、自分に許していきたい。

 

 

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まあ、そう気にしなさんな。

水だけど飲もう。

 

 

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