ダメ人間になってしまえばいい
前回の記事で、わたしがいかにクズとして生きてきたか、という話を暴露したのだが、
実はあの記事自体が、壮大な前フリであった。
前フリをしてから、続きを書くまでにえらい時間が開いてしまって申し訳ないが、気分が乗ったときにしか書かないブログなので、そこはご了承いただきたい。今のこのブログは集客用でもなんでもない、ただの趣味ブログなので、一日3記事とかゴリゴリ更新する必要はないのだ。(起業家当時はやっていた)
クリスマス気分のヴィーナス
さて、本題に戻ろう。
先日、友人が鬱になったとの報告があった。
何もする気が起きず、動こうとすると動悸がして苦しくなるのだと。
だから、しばらく休業する、という連絡だった。
わたしは「それはいいことだ」と思った。
人には動けないときくらいある。
動けないときは動かなくていいのだ。
ダメ人間のようになるときだってある。
ダメ人間であったっていいのだ。
何をやったってダメ、という時期が、人にはある。(こともある)
何もしたくない、何もできないときは、何もしなくていいのだ。
何をやったってダメなときは、ダメな人として生きればいい。
わたしがそうだったように。
それでなくても、今まで精力的に活動してきた友人のことだ。
疲れることくらいあるだろう。
自分の心が「楽しい」と感じること以外、決して仕事にしなかった彼女だが、それだからこそ、ひとつの仕事に膨大なエネルギーと、持ち前の繊細な感受性をフルに使ってきたはずだ。疲れて当然。休みたくなって当然だ。
彼女ほどエネルギッシュに生きてきていない、どころか、相当ぐうたらにまともな成果も出さずに生きてきたわたしでさえ、二年もの間、全力でダメ人間のクズ人生を送らせてもらったのだ。今まで数え切れない人に勇気を与え、人生を変え、全力で走ってきた彼女が、休んでいけない理由などあるわけがない。
好きなだけ休めばいい。
いっそダメ人間になってしまえばいい、と思った。
なにしろ、二年前、ダメ人間を開始した頃のわたしだが、そのとき
「何もする気が起きない」
「働きたくない」
「やりたいことはあるが、金にならないことばかり」
「生産性のあることに興味が持てない」
「でも働かなければいけない気がするし、どうしたらいいのか」
という、かなり人として最低感漂う相談をしたわたしに
「最高じゃないですか!じゃあ何もしないでいきましょうよ!」
と、軽やかに言ってのけたのが、彼女だからだ。
「普通はみんな、お金になるとか、稼げるとか、そんなところにばかり価値を感じて、そればかり追いかけてしまうんです」
「だから、そうじゃないところに価値を感じられる朝海さんはすごいんですよ!」
「わたしには無理です。どうしても、いくら稼げるとか、結果が出るとか、そういうところを気にしてしまう。だから朝海さんみたいな人はすごいな、と感じるんです」
彼女はそう言って、鮮やかに笑った。
まさか肯定してもらえるとは思っていなかったので、激しく面食らったが、彼女はその後もずっと、わたしの最低なエピソードを明かすたびに「最高ですね!」と大笑いしてくれた。(念のため断っておくと、馬鹿にした笑いじゃないよ)
彼女からのこの言葉は、わたしという人間を深いところで肯定する力をくれ、今の「わたし」をつくるのに、とても大きく影響している。
今のわたしが「どうぶつのように生きているだけでいい」と思うようになった基盤には、このときの「何も取り柄のない、何をやってもダメなわたし。しかもそれを改善する気もないわたし」を、心の底から肯定できたこと、
「これ(ダメ人間)がわたしなんだ。このままで生きていけばいいんだ」
このときに、そう決意したことが大きい。
このとき、この自分を否定され、なにかしらの「稼ぐ道」を示されていたら、わたしは本質的な意味で、深いところで自分を肯定することが出来ず、やはり今まで通り「社会的に認められる、金銭的価値を生み出せる自分」を追い求めてしまったに違いない。
そんな彼女が、今度は「休みたい。何もしたくない」と言い出したのだ。
わたしは否定どころか「ブラボー!!」と喝采したいくらいだった。
休めばいいじゃないか。
さぼればいいじゃないか。
今度は彼女が「ダメ人間」を体験すればいいのだ。
あわよくば、いっそ「ダメ人間」に目覚めてしまえばいい、と思った。
しかし、これには問題があった。
休むにはお金がいるのだ。
現代社会は、生きているだけでお金がかかる。
家賃に生活費に、鬱治療のための医療費。
余計なこととは思いつつも、内心気にかけていたら、共通の友人が彼女のためにpolcaを立ち上げ、クラウドファンディングを開始した。
こういうときに、すぐに動ける友人の行動力を尊敬しつつ、わたしは彼女に支援を送った。(ただしアプリを使いこなせないポンコツなので、直接口座に入金した)
銀行で振り込み作業をしながら、なぜか心の底から奇妙な喜びというか、笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「わたしは、とてもいいお金の使い方をしている」
そんな想いが湧き上がってきたのだ。
断っておきたいのだが、決して「人助けをしているから」とか「よい行いをしているから」とか、そういった理由ではない。
一言で言うと
友人がニートするためのお金をあげる自分
という行為、自分の姿が、クッソ面白いと思ったからだ。
ふと、わたしは一体なんのためにお金を払っているのだろう?と考えたときに「友人がニートするためだ」と思ったら、すごい笑えたんだよね。この言葉の不毛感がたまらないな、と。
友人が、何も生み出さず、何の価値もなく、何の役にも立たず、社会的には最低とされる行為をするために、わたしはお金を出そうとしている。
こんな不毛なお金の使い方ってあるのかな。
でも、わたしにとっては、すごく価値のあるお金の使い方だと思ったんだ。
お金を振り込みながら、わたしは「このお金で、彼女が少しでも安心してニート生活を過ごせたらいい」と思った。
そして、同時に思った。
あ、これは過去のわたしに言った言葉だ、と。
二年間のニート生活をしながら、わたしは日々自分を責め続けていた。
「こんな自分ではいけない」
「こんなことではいけない」
「早くこんな生活はやめなければ」
「いつかツケが回ってくる。大変なことになる」
と。毎日ぐうたらで、ごろごろダラダラしながらも、心は休まっていなかった。自分を否定し続けていた。
そんな自分に、今、言ったのだ。
「安心していいよ」
と。
わたしは、過去のダメ人間だったわたしを、たった今、肯定したんだ。
わたしは友人を通して、過去のわたしにお金をあげたんだ。
それは、人のお金を使ってニートするという、世間一般的には最低な行為を、自ら推奨したということで、そうしていた自分を完全に許し、肯定したということだ。
それに気付いたとき、なんとも言えない温かい感覚が、胸に広がるのがわかった。
よく、自分のダメなところを肯定できると、他人のダメなところも気にならなくなる、肯定できる、という話は聞く。
しかし、逆もあるのだ。
他人を肯定できたことによって、わたしは自分のことも肯定できた。
それを、わたしはとても嬉しいと思った。
思わぬ副産物がついたが、この「不毛なお金の使い方」こそ「生産的なことに価値を置かないところが、朝海さんのすごいところ」と言ってくれた彼女の言葉に、最も報いていると思う。
そして、その気になれば一日で100万円の売り上げを達成できる敏腕起業家でありながら、徹底して「自分の心が楽しいと感じること」にしか、お金を介在させなかった(売る・買う両方)彼女にあやかって、わたしが彼女にお金をあげる理由も「面白いから」でありたい。
そう。面白いんだよ、不毛なことは。
それに何の価値があるとか、何の役に立つとか、いらないから。
思いっきり、不毛を楽しめばいい。
不毛である自分を楽しめばいい。
あとぶっちゃけた話、人の金でニートするって最高に楽しいので(自分を肯定した途端、この開き直ったクズっぷり)状況の許す限り、彼女には安心してニート生活を楽しんで欲しいな、と思っている。
前回も言ったけれども、何もしていない人間に対して、世間は厳しい。
もう少しくらい、ダメ人間に優しい世界になってくれればいいのに、と思うけれども、せめてわたしくらいは、誰よりダメ人間に優しくあろうと思っている。(ダメ人間代表としてw)
今は、その一環として「友人がニートするためにお金をあげる自分」も相当面白いけど、「友人がニートするために仕送りする自分」はもっと面白いな、と思ったので、毎月お金を送ろうと思っている。
何が面白いって、何年か経った後に「昔、ニートの友人に仕送りしていたことがありまして」って人に話したときの、相手の反応を想像するとすごい面白いんだよね。
まあ、それだけではなくて、実は彼女にお金をあげてから、なぜかえらいお金が入ってくるようになったので(スピリチュアルで言う「人の喜びのためにお金を使うと入ってくる」てのは、どうやら本当みたいよ)密かにそれを期待してもいる(ゲスw)