ゴミみたいに生きていた自分

できるだけ、価値観を固定しない方向でいきたい。

 

 

なにかを「やる」ことはいいが「やらない」のはいけない。

なにかを「生み出す」のはいいが「なにも生まない」のはいけない。

「役に立つ」ものはいいが「無駄」はいけない。

 

 

世の中は、とかく「役に立つ」ことや「生み出す」ことや「貢献していること」や「行動している」ことに価値を置きたがる。

余談だが、面接の際、履歴に僅かでも空白期間があると「この時期は何をしていたのですか?」と聞かれることに辟易している。なにもしていない、というのは、それほど罪深いことなのだろうか?

 

 

確かに「役に立つ」ことや「貢献している」ことや「何かを生み出している」ことや「行動していること」「学んでいること」「労働していること」には、言うまでもなく価値がある。

「所属していること」や「何者かであること」も、そう。

「ポジティブ」や「希望」や「光」「善良」「優しさ」「正義」「好意」「明るい」こういったものも、だいたい無条件に「いいもの」とされるものだ。

 

 

では、その反対には価値がないのだろうか?

 

 

「役に立たないこと」「貢献しないこと」「なにも生み出さないこと」「動かないこと」「学ばないこと」「働かないこと」「所属しないこと」「何者でもないこと」「ネガティブ」で「絶望」していていて「正しくなく」「暗く」「人に好かれず」「闇」であることは、価値のないことで、悪いことなのだろうか?

 

 

この疑問にとことん向き合ったのが、八丈島から帰ってからの二年間だった。

 

asamitoda.hatenablog.com

 

 

一旦、自分をリセットしようと思って始めた旅だったが、旅を終えても、自分がこれからどうしたいのか、何をすべきなのか、全く見えて来なかった。

 

 

何をしたいのかわからなかったわたしは、心に従って「なにもしない」を選択した。

 

 

働かず、家から出ず、人に会わず、勉強もせず、発信もせず、ひがな一日、何もしないでぼーーーーっと過ごす日々。

完全なるクズニートである。

ちなみに、生活費は親を頼っていた。

30過ぎた健康体の身で、親の金でだらだらニート生活を行うという、本物の堕落したクズを体験した。

 

 

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そのとき、まっ先に襲って来たのが、強烈な罪悪感である。

 

 

やはり一般的な価値基準として、成人した社会人は働かなければならないし、働かないならそれなりの「正当な」理由が必要だし、働く代わりに何かをするべきだし、なにも役に立たない、何にも貢献しない、何も生み出さない人間なんて、生きる価値はない。

 

 

わたし自身もそう思っていたから、誰よりもわたし自身が、その価値観によって自分を責めた。

 

(いい年して働かないなんてどうかしてる)

(普通は仕送りするのが当然の年齢なのに、親からお金をもらうなんて恥を知れ)

(こんな自分を人に知られたらどう思われるか)

(親もこんなわたしを恥ずかしいと思っている)

(ここまでしてもらって期待に応えられないなんて、なんてダメな人間なのか)

(誰の役にも立たず生きてるなんてゴミと同じだ)

(こんなにできないことだらけで、この先どうやって生きていくつもりなのか)

(いつまでも甘えていられると思うな)

(客観的に見たわたしは、どう考えても社会のクズだ)

 

 

ここまで自分を責めるくらいなら、バイトでも何でもすればいいじゃないか、と思うだろう。

でも、それは違う、と思った。

働くのはもちろんいい。やりたいことでなくたって構わない。生きるために身銭を稼ぐのは、しごく真っ当で、当たり前のことだ。

 

 

でも、それは、罪悪感からであってはいけない。

誰かから(自分から)責められるのが嫌だから、という理由ではいけない。

 

 

その動機から動いてしまえば、わたしはまた同じことを繰り返し

「やっぱりわたしはダメなんだ」

というセルフイメージを、さらに強化するだけで終わるだろう。

 

 

そうしたら、わたしはこの先、何があっても「やっぱりわたしはダメ」というベースで行動することになる。そんな欠乏感でひび割れた土台の上には、何も造り上げられないし、造ってもすぐに壊れるだろう。そして、わたしはまた自信を失う。それでは意味がない。

 

 

わたしのやるべきことは、今の自分を否定して、今の自分(ダメな自分)でなくなるために働くことではなく、今の自分を徹底的に肯定することだ。

 

 

わたしは、目標をそう定めた。

厳密に言うと「目標もなく生きている自分」にもOKを出したかったから、目標という言葉は使わないことにした。

 

 

罪悪感に追われるからではなく、自分を責めたくないからではなく、純粋に「やりたい」という気持ちが出てくるまでは、働かないと決めた。

 

 

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野外生活をしたわけではないがw

 

 

それからのわたしは、徹底的に自分を内観し、湧いてくる自責の言葉、自分に対するマイナスイメージのひとつひとつに、OKを出していった。

 

 

働いていない自分 → それでもいい

何もしていない自分 → それでもいい

価値を生み出さない自分 → それでもいい

社会に貢献してない自分 → それでもいい

一日ごろごろダラダラする自分 → それでもいい

キツい仕事に耐えられない自分 → それでもいい

親に養ってもらってる自分 → それでもいい

親孝行できない自分 → それでもいい

人生を無駄にしてる自分 → それでもいい

向上心のない自分 → それでもいい

世の中から置いていかれてる自分 → それでもいい

社会不適合者な自分 → それでもいい

人並みのことすらままならない自分 → それでもいい

 

 

こうやって、ひとつひとつにOKを出していった。

「それでもいい」だと弱いので、一部「そんなわたしだからこそいい」に変えた。(これはなかなか効果がありました)

しかし、こうやって自分は自分を認めたとしても、社会はわたしを認めないだろう、という思いは強く残った。

 

 

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その頃、世間では、個人事業主で自分らしさを発揮して、どんどん輝いていく事業者が増えていた。

個人で活躍していた人が、どんどん会社設立していき「月7桁」という言葉が流行した。世間ではもはや、事業をするなら月商7桁を目指すのが当たり前、みたいな空気が蔓延し、お金を稼ぐ、ということに関して、みんなが肯定的なイメージを持ち始め、積極的になっていった頃だったと思う。

 

 

実際、それでお金のブロックが外れ、稼ぐ人が増えたことは、素晴らしい時代の変化だったと思う。

ただ、そんな中、月商7桁どころかマイナスな自分。お金を循環させるどころか、停滞させ、腐らせている自分を見ることが、とても辛かった。

 

 

わたしは、SNSで、他人の投稿を見るのをやめた。

自分以外の、一切のフォローを外し、友達のフォローすら外し、他人の情報は一切目に入れず、自分の内側だけに向き合った。

 

 

自分が自分に語りかけるために、自分が自分の思いを整理し、自分の目で見つめるためだけに、FBの投稿は続けた。

誰に何を思われるとか、いいねの数がどうとか、他人のことを考えるのを一切やめた。

内側から出てくる自分の言葉を拾い上げ、それをひたすら打ち込む。

ただ自分のためだけに、その作業を続けた。

 

 

とてつもなくエゴイスティックで、傲慢で、孤独な作業だったと思う。

でもわたしは、自分のエゴにこそOKを出したかったし、それで孤独になるなら、自分だけはそんな自分に寄り添いたい。自分だけは、自分の味方でいたいと思った。

 

 

今思えば、そう思いたかったから、あえて自分しか味方がいないような状況に、自分を追い込んだのかもしれない。

 

 

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そうやって、わたしはダメな自分、なにもない自分、存在価値のない自分に、OKを出していった。

何も生み出さず、消費しかしない、息をしてるだけの、ゴミみたいに生きている自分に、それでもOKを出した。

 

 

客観的に見れば、役に立たない産廃そのものの自分だが、それでも自分だけは、その生き方を肯定したいと思った。

そのために、価値観を大幅に変えたいと思った。

 

「役に立つこと」が、良い。

「貢献すること」が、良い。

「生み出すこと」が、良い。

「できること」が、良い。

「行動すること」が、良い。

「がんばること」が、良い。

「ためになること」が、良い。

「力があること」が、良い。

「目標があること」が、良い。

 

もっと言うなら、究極「価値あること」が良い。

 

 

その価値観を、逆転させたいと思った。

 

 

といっても、これらには価値がない、としたいわけじゃない。

その逆のものも「良い」としたい。

もっと、もっと言うなら、

 

 

価値があるとかないとか、いいとか悪いとか、そんな価値観自体を取っ払いたい、と思った。

 

 

価値があるからする。いいことだからする。無駄だからしない。悪いことだからしない。

その価値基準から外れたい、と思った。

したいからする。したくないからしない。

理由なんてそれで充分じゃないか。

そこに価値だとか、役に立つだとか、何かを生むだとか、稼げるとか、そんな余計なものを乗せなくていい。

 

 

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何かをする、しない、なんて、本当はもっとシンプルなはずだ。

ただの素直な欲求だ。

役に立とうが、迷惑だろうが、得をしようが、損しようが、何かを得られようが、失おうが、人は本来、やりたいことをやるし、やりたくないことはやらない。

どうぶつはそういうものだ。

 

 

それ以外のことを考えてしまうのは、思考に支配されるからだ。

行動に、なにか意味を持たせたり、価値をつけたり、損得を交えてしまうのは、にんげんだけだ。

本来は、行動それ自体に、意味も価値もない。

あるのは欲求と必要性だけだ。

 

 

だったら、わたしはもう、どうぶつでいい。

一匹のどうぶつのように、本能と欲求に従って生きよう。

人間として正しくなくてもいい。

社会人として失格でもいい。

 

 

寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、やることがなければじっとして動かないのは、ヒトとしては失格でも、動物としては自然な行動だ。

わたしは、人間としての正しさより、動物としての自然を選びたい。

 

 

今のわたしが持っている「理念」のようなものは、それだけだ。

どうぶつとして、生き物として自然であること。

思考や、社会的な決まりごとに従うよりも、肉体感覚に従うこと。

それだけを頼りに、この二年間は生きてきた。

 

 

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現時点でのわたしは、そのステージもやり切ってしまったのか、人間として新しく動き出したい気持ちが出てきている。

 

 

しかしそれも「今は動きたい」という「今」の欲求に従った結果そうするだけで、

「ずっと動けなかったわたしが、元気を回復して、行動できるようになりました!」

という成功ストーリーにはしたくない。

 

 

動くことに価値があり、動かないことには価値がない、という価値基準は、今でも持っていない。

だからこれは「ダメだったわたしがよくなった」物語ではない。そんな成長記録のような読み方は、できるならして欲しくない。

 

 

価値のために動かなくていいし、よくなるために動かなくていい。

そもそも「よく」なくていいし、良し悪しではない。

やりたいか、やりたくないか。

そのときの素直な感覚にだけ、従っていたい。

いつでも、それを許せる自分でありたい。

 

 

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