全部「かさじぞう」のせい。
「お金儲けなんかより社会貢献をしろ」
先日、ある有名な方のブログについていたコメントだ。
この方は超人気のベストセラー作家であり、講座もいつも満席、実際かなり稼いでいるようだが、この方以外にも、桁外れに稼いでいる事業者が、似たようなことを言われている場面を、何度か目撃したことがある。
まず、現代日本が経済社会である以上、経済を回すことは絶対に必要だ。
つまり、お金を稼いで経済活動を活発にしていくことは、これ以上ないほどの社会貢献になっているはずだ。
なぜか、ボランティアだけが社会貢献だと考えている人も多いが、無償でやれば社会貢献、有料でやったら社会貢献ではない、というのはおかしな話だ。
もちろん無償で人を助けることも社会貢献だが、多額のお金を稼いで国に高額の税金を納めることも、巡り巡ってそれが国民の暮らしに還元されることを思えば、こちらも立派に人の役に立っている。
しかし、それ以前に「お金を取る」こと自体を、まるで有害な行為であるかのように思っている人も、少なくないように思う。「ビジネス」とか「お金儲け」「稼ぐ」という言葉に、アレルギー的な嫌悪感を持つ人も多い。
それだけではなく、それが高じて、お金を多く稼いでいる人は、それだけで悪人だ、と決めつけている人までいる。冒頭のコメントを送ったのも、おそらくそういう人だろう。
で、それはなぜだろう? と考えてみた。
そして、ふとピンと来た。
これは、昔話「かさじぞう」に、端を発するものではないかと。
昔話の「かさじぞう」は、みんな知っているだろうが、おおまかな話の流れはこうだ。
昔あるところに、正直で善良な貧しいおじいさんとおばあさんが住んでいて、おじいさんは笠を売り歩いている。しかしある雪の日、全く笠が売れなくて、おじいさんは売れ残った笠を、お地蔵さんにかぶせてあげる。翌朝目覚めると、家の前に金銀財宝が置いてあり、遠くに笠をかぶったお地蔵さんが去っていく後ろ姿が見える......
というものだ。
かさじぞうに限らず、舌切り雀でも、花咲かじいさんでもそうだが、昔話の主人公は、大抵「正直で善良」で「貧しい」がセットになっている。
なお、だいたいその対比として「欲ばりじいさん」みたいな人がいて、その人は悪人として描かれている。
このせいじゃないだろうか。
わたしたちは、幼少期に、これらの昔話によって「欲を持つことは悪いこと。いいひとはみんな貧しい」と刷り込まれてしまうのだ。
そう。全部かさじぞうのせいだ。
しかし、ここに大きな誤解があると思う。
誤解というか、矛盾というか、イメージのねじれというか。
一種の「イメージによる事実のねじ曲げ」が起こっている。
まず「昔話に出てくるいい人は貧しい」だが、これは事実だ。
だが「貧しい人はいい人」ではない。
昔話に出てくる善良な人はみんな貧しいけれど、だからと言って、貧しい人はみんな善良かというと、それは違うのだ。
そもそも「いい人」であることと「貧しさ」には、なんの関連性もない。
実際には、善良な大富豪もいれば、貧しい極悪人だっている。それは、冷静に世間を見渡せば、誰にだってわかることだと思う。
だが「いい人は貧しい」というイメージが強烈につきすぎていると、貧しい人は全員いい人であるかのような、逆にお金持ちは全員悪人であるかのように、思い込んでしまう。
あと、昔話に出てくる「欲ばりじいさん」は「金持ち」ではなく、善良なじいさんと同じくらいの貧乏である。(隣に住んでるし)
しかも、彼らは「隙あらば人の金や財宝を盗んだり、奪い取ろうとするセコい盗人体質」なので、欲ばりじいさんを見て「お金を欲しがる人は悪人」とするのも間違いだ。
欲ばりじいさんは、欲張りとは別に「人のものを盗む」という(あと経歴詐称とか)ルール違反を犯している、れっきとした「悪人(悪いことをした人)」である。
ちょっとわかりにくいかな。
つまり、本来「欲ばり」であることに「悪人」は含まれていないよ、ってことね。
「欲ばりという悪」なのではなく「欲ばりであると同時に悪」と言ったらわかるかな。「欲ばりであることが悪」なのではなく「欲ばりな人が、たまたま悪人でもあった」というか。
「善良」と「貧乏」が本来結びついていないように「欲ばり」と「悪」も、本来結びついていないよ、ってこと。たまたま昔話には「欲張りな悪人」がしょっちゅう出てくる、というだけね。
そのため「欲ばりな人は悪人だ」というイメージが残ってしまいやすいんだけど、実際には「欲ばり」であることと「悪人」であることも、全く関係はない。
欲ばりは、ただ欲望が強いだけ。それ自体は悪いことでもなんでもない。
まして「金持ちは悪人である」というのは、全くの誤解だ。昔話にさえ、そんなエピソードは書かれていない。
強いて言うなら、桃太郎の鬼は、村人から奪ったお金で贅沢していたのだったかな。あとは、なんか弱い人からお金を巻き上げる野党とか。苛税を布く領主とか。
そういうのを見てると「お金持ち=弱い人からお金を巻き上げる人」のイメージはつくか。なるほど。(こちらは昔話より時代劇かもしれない)
しかし、これも偏った描写による偏ったイメージで、物語の中には「弱者から金を巻き上げる悪い金持ちや権力者」が、たまたま多く登場する、というだけのことだ。
実際には、質素倹約を旨とし、粗食で贅沢を禁じて財政を立て直した将軍なんかも、日本にはいたわけでね。
金の錦鯉
そう考えると、お金を持っているかどうかと悪人であるかどうかも、一切関係がないのがわかる。お金持ちの悪人もそりゃいるだろうが、お金持ちの善人もいるわけで、そこは実際には関係がない。それはただのイメージだ。
多額の寄付をするセレブだって、たくさんいるしね。
いや、あれは売名行為でしょう?
そう言ってくる人もいるかもしれないけど、冒頭の「社会貢献」という点で見れば、動機が何であれ、貢献の度合いはすごいよね。だって、そのお金で助かる人がたくさんいるんだもん。
その寄付によって助かった人からすると、そのお金がどういう目的で出されたものかなんて、あんまり関係ないんじゃないかな。
あと、人の行為を勝手に売名だと決めつけてるのも、あまりに一方的だ。
ボランティアは売名行為にならないの?
一般の人がボランティアをして「こんなボランティアやってまーす」とビラを配ることは、売名行為にならないの?
有名な人がやったら売名行為で、無名な人が同じことをしたら社会貢献なの?
お金持ちがやったら売名行為(何か悪い魂胆のある悪い行為)で、貧しい人がやったら社会貢献なの?
それは「その人にお金があるか、ないか」で決まるものなの?
その人が「お金を持っているかどうか」で、行為の善悪が決まるものなの?
そうだとしたら、それはあまりにも「お金」というものに縛られ過ぎてはいないか。
なんでみんな、そんなに「お金」を敵視するの?
なんでみんな、そんなに「お金」を悪者扱いしてるの?
それは、今まで話してきたように、幼少期に植え付けられたイメージもあるかもしれない。(それは結構、かなり強烈なのかもしれない)
だけど、思ったんだけど、みんな悔しいんじゃないかな。
自分だって人助けがしたい。もっと社会の役に立ちたい。
でも、日々の仕事やボランティアでは、本当に細々と、僅かな人を助けるのが精一杯で、思うような貢献ができていない。
さらに、お金がないせいで、物事が立ち行かなくなる場面も、本当に多々ある。
なぜ知っているかというと、わたしも昔、動物関連のボランティアに多数参加したからだ。介助犬など、補助犬の育成は、ほとんどが寄付で成り立っているし、捨て犬の保護施設を手伝ったことも、何度もある。
みんなお金がない。
お金がなくて、それなのに労働は過酷で、それでみんな疲弊していく。
みんな夢や理想があったはずなのに。
動物たちを助けたい。困ってる人を助けたい。そんな純粋な想いがあったはずなのに、日々に忙殺されて、自分たち自身ががお金に困り過ぎて、どんどん疲れた顔になっていく。
ボランティアの場面って、結構な絶望感が漂うところも少なくない。もちろん、全部が全部、そうじゃないだろうが。
そんな中、数千万円とかをポンと寄付するセレブを見たら、すごく悔しい思いをするかもしれない。自分たちがこんなにも苦しんでしていることを、いとも簡単に、軽々と行われたら、それはとても嫌な思いがするかもしれない。
それも、労働力ではなく、お金で。
自分は動かないのかよ。財布から金出すだけかよ。
いーですね、お金持ってる人は。楽に簡単に人の役に立てて。どうせ自分のための売名行為のくせに。わたしたちほど、人を助けたいなんて、強く思ってないくせに。
わたしたちの方が頑張ってるのに。
わたしたちの方が大変な思いして、歯を食いしばってやってるのに、お金持ちは片手間にできちゃうんだから、手軽でいいですよね。どうせ動機も手軽なんでしょ。
こんなふうに、拗ねたくなるかもしれない。
これは、多分「お金を出すことは簡単だ」と思っているからだ。
でも考えてみて欲しい。
本当に、お金を持っていたら、人のために出すのは「簡単」だろうか?
例えば、わたしが月収20万円だったとする。
まあ、この額を多いとするか少ないをするかは人によるだろうが、目の前の人が月収10万円だった場合、どう考えても、わたしの方が多く持っていることになるだろう。
では、その人のために「じゃあ2万円あげるわ」と、言えるだろうか。
10万円の人と比べたら、20万円の人は「お金持ち」だ。
でも、その人がいくら困っていたからって、見ず知らずの人に、自腹を切ってお金をあげられるだろうか?
20万円と10万円じゃあ、そんなに差はない?
じゃあ、月収1万円の人だったら?
ちなみにこの境地は経験があるが、月収1万円から見ると、20万円持っていたら大金持ちだ。「20万円もあったら、まじで何だってできるじゃん」と思っていた。寄付くらい余裕で出来るだろ、とも思っていた。
じゃあ、実際に20万円持っている人が、気軽に、簡単に、人にお金をあげられるものだろうか?
5万円は多すぎる?
じゃあ5千円だったら?
500円だったら?
いくらなら、人に「気軽に」「簡単に」お金をあげられる?
この感覚って、20万円が2千万円になっても、そんなに変わらないんじゃないかな。
まあ、2千万円持ったことがないから、あくまでも想像なんですが。
月収1万円が20万円に変わったところで、わたしは人にお金をあげることが「簡単」になんてなりませんでしたよ。
やっぱり、どこか惜しい気持ちが出てくるし、減ってしまう怖さも出てくる。あくまでも、わたしの場合ですけどね。
それって、2億円のうちの5千万円でも、同じなんじゃないかなあ。
いや、2億じゃなくて、もっと数十億だよ、と言うかもしれないけど。
持っている金額がいくらになったところで、人に自分のお金をあげられるかどうかは、持っている金額ではなく、その人の「人間性」で決まるんじゃないかなあ。
おそろしく金運の高い、富士山麓にある新屋山神社
お金がどれほど可能性を持っていても、それを使うのは人間だ。
その人が、お金をどのように使っているか、だ。
お金を悪用する人もいるだろう。
でも、お金が「悪」なのではない。
お金、それ自体に善悪があるわけではない。
お金を持っているから「悪」なのでもない。
そこに善悪の概念はない。
わたし自身、お金がない悔しさを味わったことがある。
なにも買えない惨めさ。
なにもできない無力感。情けなさ。
嫌になるほど、それらを味わったことがある。
お金持ちを羨んで、妬んだこともある。
お金を悪用する人を憎んだこともある。
でも、それら全部「お金」の罪ではない。
お金そのものは、何も悪くない。
お金を持つことそのものにも、何も罪はない。
お金はただの道具だ。
「お金」という、ただの便利な道具に、過剰な意味を持たせすぎないようにしたい。
それがきっと「お金に振り回されない」ということだ。