コントロールを手放せ

先日の大雪で足を取られ、左足を捻挫した。

 

f:id:asamitoda:20180205081240j:image

 

f:id:asamitoda:20180205081039j:image

 

持ち前の根性なし故に(日本語おかしいw)日頃から、怪我や大病とは縁がないのだが(少しでも違和感があればすぐに休むので)今回は、珍しく、本当ーーーに珍しく、ちょっと無理をした結果、足が動かなくなった。

 

 

怪我、はもちろんだが、身体の痛みというものは、自分に何かを伝えるためのメッセージだと捉えている。今回に限らずだが、わたしは身体に何か痛みや不調、不具合があれば、そこにどんなメッセージが含まれているのか? という視点で、現象を見ることにしている。

 

 

で、今回は「足」だ。

そして、症状は「動けない」。

さらにスピリチュアル的に見ると、右半身は「能動」左半身は「受動」を示す。

 

 

今回の怪我は左足なので「前に進む」ための器官に「受動」に関するトラブルが起きている、となる。素直に読み取れば、わかりやすく「動きたくない」「我慢してやっていることをやめろ」の合図になるが、ここに違和感が残った。

 

 

こういう症状は、本来なら「嫌なことを我慢してやっている」ときに起こるからだ。

しかし、わたしは今の仕事がかなり好きで、楽しく通っている。まあ、仕事なので、我慢が全くないわけではないが、それでもかなり好条件で、好きなようにやらせてもらっている。ストレスはほとんどない。

 

 

なら、わたしは何が嫌で、足を止めたかったのだろう?

 

 

別の側面から、今回の怪我を見てみる。

今回、いつもと大きく違ったことは、病院に行って治療をしたことだ。

 

 

上にも書いているが、普段あまり大きな怪我も病気もしないので、病院のお世話になることは、ほとんどない。それに、できれば痛みや症状を、治療によって取り去ることより、その痛みや症状そのものに目を向けたいので、あまり外から手を加えないようにしているのだ。

 

 

ただ、今回は歩けないほどに痛くて、応急処置を求め、仕方なく最寄りの病院に駆け込んだ。

急な来院にも関わらず、先生は優しく、処置も適切にしていただき、お陰で回復した今では、前よりも動きがよくなったと感じるほどだ。痛みの箇所や原因もわかりやすく伝えてくださり、元々あった古傷も改善された。ずっと敬遠していたけど、病院にも先生にも、感謝しかない。

 

 

痛手があったとすれば、治療費がかかったことだ。

 

 

今月、金銭的にちょっとカツカツで、割と計画的にお金を使っていた。

必要経費がこれくらいで、そのために生活に使えるお金はこれくらいで、一日の出費はいくらまで......みたいな感じで。その日までは、ギリギリながらも何とかやりくり出来ていて、そのまま行けば、ある程度の金額が余るはずだった。

そう、その日までは。

 

 

結局、通院のため、取っておくはずだった分のお金を、綺麗に使い切ることになった。

んで、面白いんだけど、いちどその砦を崩したら、怪我でちょっと気持ちが甘えてるせいもあってか、歩けなくてタクシー使ったり、他にも欲しいもの買ったりと、普段の節制が一気に崩れた。もうどうでもいいか、って感じになったのね。

 

 

で、思ったのは「このまま計画通りに行けば」なんてないのね、ってこと。

予想外のトラブルとか、予想外の出費とか、予想外の何か、ってのは、絶対にある。「計画通り」になんて、物事は進まないんだ、っていうこと。

 

 

そして「予想外の出来事というのは、予想外のことが起こるということを、わたしたちに教えるために起こるのかもしれない」と思った。

 

 

どういうことか、というとね。

「計画通り」に物事を進めようとしているときって「物事は自分の思い通りになる」という前提に立っているよね。

つまり「現実はコントロール可能である」という意識の上に立っている。

 

 

でも、そんなことってあるわけなくて、現実を全て人間の頭の中の計画通りにコントロールなんてできるわけなくて、絶対に人間の思考を超えた出来事というのは起こる。それが「予想外の出来事」だ。

 

 

だいたい、物事をきっちりと計画通りに進めようと、躍起になっているときに限って「予想外の出来事」は起こるのだ。まるで、こちらの努力をあざ笑うかのように。

でもそれは「予想外の出来事は起こるのだから、完全に計画通り進めるなんて無理なんだよ」と、わたしたちに教えてくれる。そのための出来事なんじゃないだろうか。

 

 

つまりこれは「コントロールを手放せ」ということだったんじゃないかなあ。

そもそもわたし、計画的にきっちりカッチリ、なんて全然向いてないし、予定すらろくに立てないほど、先のことを考えて動くのが嫌いだ。(スケジュール帳は白いほどいい、という価値観で生きています)

 

 

そのくせ無理して、自分を管理して、節制して、コントロールなんてしようとしていたから「そんなんお前には無理やで」と、神様からサレンダーを促されたのかもしれない。

そう。無理して我慢していたのは、仕事ではなく、生活そのものだったのだ。

 

 

コントロールを捨てる。

サレンダー(降伏)する。

 

 

大事なことだとわかっているけど、というか、そもそもコントロールなんて不可能だとわかっているのに、未だなお、コントロールができるような気がしてしまう。そしてつい、頑張る。

 

 

しかし、そんなときにこそ、コントロール不可能な出来事がやってきて、コントロールは不可能なのだと教えてくれる。そうすると、頑張って「学ぶ」必要すらも、本当はなくて、現状が勝手に教えてくれるものなのかもしれない。

そんなことまで、何もかも、手放してしまってもいいのかもしれない。

 

 

f:id:asamitoda:20180205082152j:image

ほっと一息。

 

 

コントロールを手放すとは、「頑張らない」ということだ。

必要なことは、目の前の現状と、身体の感覚が教えてくれるから。それだけに目を向けて、それだけを信用して生きる。

これが「サレンダー(降伏)した生き方」なのだろう。

 

 

状況をコントロールしようとしているとき、わたしはよく「頑張ればなんとかなる」という言葉を使う。だが、今回のことで思い知らされたのは、この「頑張れば」というのは、常に五体満足で身体が健常に働くことを前提としている。

 

 

これが思い込みに過ぎないことを、今回の怪我で思い知らされた。

 

 

「頑張れば何とかなる」予定だったことでも、怪我をすれば容易に「頑張れなく」なる。

怪我をしていないときでも、わたしたちの身体はいつも一定ではない。

自分の身体のことすら、わたしたちは、本当に自由になどできていない。

思い通りにできることなんて、本当は何一つないのかもしれない。

 

 

じゃあ、努力は無駄なのですか?

頑張ってはいけないのですか?

 

 

という話ではなくてね。

これはつまり「自分という個人の小さな脳みそで思い描ける程度の『思い通り』になんかこだわるんじゃないよ」ということだ。

 

 

 執着を捨てよ、ということ。

「自分」という、小さな個人の頭の中で描けるシナリオなんて、枠が狭いのだ。

 

 

そんな、狭い脳内世界で描いた、せせこましい脳内脚本の通りに物事を進めることに執着しても、予想できる程度のつまらない結末しか待っていないよ、もっと大きな世界に行こうよ。

そう言われたような気がしてならない。

 

 

そう。

「予想外」って「予想以上」なのだ。

 

 

よく「コントロールを手放したところに奇跡が起こる」という。

何もかもを、自分一人でコントロールしようとしていると、そこに宇宙の介入(いわゆる「偶然」や「奇跡」と呼ばれる現象) が入る余地がなくなるから、ひとりで何もかもを抱え込んではいけない、とも言われる。

 

 

今回のことで感じたのは「思い描く」ことと「思い通りにする」ことは違う、ということだ。

「思い描く」ことは大切なことだ。自分はこうしたい、こういう未来が欲しい、と意図すること。これがなければ行動は生まれない。そして、行動しなければ現状は動かない。

 

 

ただ、その後のことは「思い通りにいかないこともある」と知っておく。

「予想外」のことが起こる余地を残しておいて、頭で思い描いた「シナリオと結末」に固執しない。そのことがきっと、展開を「予想以上」の場所に連れて行ってくれる。

 

 

わたしたちにできることは、きっと「種をまく」ことだけなのだ。

その種は、まいた本人にすら、どう育ち、どんな実をつけるのか、想像できない。

でも待っていれば、いずれ芽を出し、気付かないうちに成長して、予想外に枝を広げ、思いもよらない実をつけたりする。

結果をコントロールしようとするのは、例えばトマトの種をまいて「この苗からは、必ず3ヶ月後に10個の実を収穫したい」と願うようなものかもしれない。

 

 

ちなみに「コントロールを手放す」ことと「人生の舵を投げ出す」ことが少し違うのは、その結末に責任を持って、最後まで見届け、取り組むかどうかにあると思う。

 

 

結果をコントロールしないが、出た結果の責任は自分にあると知っていること。どんな結果が出ても受け入れるつもりがあること。取り組み自体を、最後までやめないこと。(やめる場合は、自分の責任においてやめる決断をすること)

これがあるか、ないか、の違いじゃないかな。(「流れに乗る」と「流される」の違いみたいなものだね)

 

 

ひょっとしたら、この辺も好みの違いで、中には最初から最後まできっちりコントロールして、思い通りの結末に持っていくのが好きなんです、という人もいるのかもしれないから「こうするべきだ」などと言うつもりはない。

 

 

ただ、あたしはどうも、コントロール不能な世界に来てしまったようなので(コントロールすると怪我するみたいなのでw)今後は手放す方向でいこうと思います。

 

f:id:asamitoda:20180205081348j:image

 

しかし、とことん頑張ることができないやつだな、わたしは。

(最近は本当にそういう自分が結構好きだ)

 

 

FB:http://facebook.com/asamitoda0729