「ワクワクしたらうまく行く」について。

「ワクワクする心に従って動けばうまく行く」

最近、この考え方を、多く見かけるようになった。

 

 

これは、先日紹介した図書「アルケミスト」のテーマでもあるし、バシャールという宇宙的存在が伝えている、スピリチュアルなメッセージであり、宇宙の法則と呼ばれるものだ。(ちなみにバシャールについてはよく知らないので、突っ込んで聞かないで欲しい) 

 

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

 

バシャール・ペーパーバック1―ワクワクが人生の道標となる (VOICE新書)

バシャール・ペーパーバック1―ワクワクが人生の道標となる (VOICE新書)

 

 

あ、バシャールだ!  地球をあそぶ。地球であそぶ。

あ、バシャールだ! 地球をあそぶ。地球であそぶ。

 

 

  

で、それと同時に「ワクワクに従ったけど、うまく行かない」という人も、多くいるという。なぜ「うまく行く人」と「うまく行かない人」がいるのか、それを考えてみた。

 

 

まず、なぜ「ワクワクするとうまく行くのか」だが、これはいろんな方向から話すことが可能で(といっても、真理はひとつなんだけど)全て詳しく語ると、とても長くなるから、かいつまんでいくつか。

 

 

一つは「波動」の問題。これは「引き寄せの法則」と言い換えられるけど、自分の波動と同じ波動のものが引き寄せられる、という法則だ。

 

 

だから、ワクワクしていれば、ワクワクした波動を発するので、ワクワクした現実を引き寄せる。これは人間関係にも当てはまるので「類友の法則(類は友を呼ぶ)」と言ったら、スピリチュアルに疎い人でも、実感が湧くのではないだろうか。友人関係って、だいたい似たような人たちが集まるけど、あれと同じ。

 

 

そして「魂の望み」の話。こちらは「アルケミスト」に詳しく書いてある。

人には魂があり「魂の望み」がある。頭ではなく、魂が叶えたい願い。魂が望む生き方。それは、人が生まれて来る前に、魂が決めてきた「人生のシナリオ」であり、それを叶えようとするとき、全宇宙がそれを助ける、というものだ。

 

 

なぜなら、人の「魂の願い」とは「宇宙の願い」であり、人が魂の望みに従って生きるとき、宇宙の意思と繋がり、宇宙の願いを叶えることになるからだ。それは、人はもともと宇宙から生まれたものであり、宇宙と人はひとつのものだから。

 

 

そして、この「魂の願い」の合図となるものが「ワクワク」だ。

人が「魂の願い」を生きているとき、心は「ワクワク」する。だから、ワクワクする方向に進んでいくことは、魂を生きることになり、そうすると全宇宙の応援が得られる。ので、いろいろうまく行く。

 

 

ってことですね。長かったな。

わたしの知っている知識的なことは、これくらいです。(だいぶざっくりしたことしか知りません)

こちらに関しては、旺季志ずかさんの著作「臆病な僕でも勇者になれた七つの教え」がわかりやすい気がする。

 

臆病な僕でも勇者になれた七つの教え

臆病な僕でも勇者になれた七つの教え

 

 

 

じゃー、何でワクワクしてるのにうまくいかんの?

って話なんですけど。

 

 

普通ーーーに考えて。普通に考えて、ですよ。

例えば、ずっとやりたかったバスケをワクワクしながらやってみた。

そしたら、バスケ以外の私生活が何もかもうまくいくか? 収入が増えて彼氏とラブラブになって時間的余裕が生まれるのか? って言ったら、それらとバスケは関係ないよね、ってなりますよね。

 

 

でも、バスケをやることで毎日が超楽しくなって、活き活きして、ニコニコ過ごしてたら、周りも印象がいいし、仕事も溌剌とできるだろうし、私生活がうまく行くようになることも、充分考えられるんですよね。

 

 

でも、でも、ひょっとして。

ワクワクしながらバスケをしていれば、すぐにシュートがバカスカ決まるようになるし、ディフェンスが自分を避けるようになるし、パスも気持ちよく通りまくり! 当然試合も負け知らず! みたいな意味での「うまく行く」を期待しているなら、それはないよな、ってなりますよね。

 

 

「ワクワクしてるのにうまく行かない」人たちは、ひょっとしたら

「ワクワクしてるのにシュートが決まらない」

「ワクワクしてるのに試合に負けちゃった......」

というようなことを、言っているのかもしれない。

そういう意味なら、ワクワクしていても「うまく行かない」ことはあります。

 

 

では「うまく行く」とは何ぞや? という話ですよね。

 

 

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わたしの話をしますね。

小学二年生のとき、わたし一輪車を練習したのですよ。

転校先の小学校では、みんな乗れるのが当たり前で、自分も乗りたかったから、猛練習しました。公園で、ひとりで。

 

 

何度も何度も転びました。足は打撲と擦り傷だらけになったし、何度やっても1mも進めずに倒れた。それでも、ずっとやり続けました。日が暮れて真っ暗になっても、まだやり続けました。

 

 

しまいに、見かねて母がやってきて「もうやめたら? 疲れたでしょう」と言ってきたんです。そのときに、わたしが言い放ったセリフ⬇

 

 

「邪魔しないでよ!! 今いいところなんだから!! もう少しで出来るんだから放っといてよ!!!」

 

 

えーーー、これ、客観的に見たら

「ワクワクに従って一輪車を始めたのに、なかなかうまく行かない」

という状況だと思うんですよ。

 

 

しかし、そのときのわたし、これを「今いいところ」と言ってるんですよね。これが「いい状態」なのだと。当時のわたしにとっては、それは「うまく行ってる」状態だったわけですよ。

 

 

だって「もう少しで出来る」んだから。

そこは「過程」なんです。

それを抜ければ、ちゃんと乗れるようになる。

だから、そこは「うまく行ってない」のではなく、うまく行くまでの過程、プロセスなんです。

 

 

そして、このときに感じていた感覚こそ「ワクワク」だったと思うのですね。

 

 

わたしはこのとき、転びながらでも、怪我しながらでも、痛くても、やりたい気持ちでいっぱいだった。心に希望しかなかった。

この感覚を「ワクワク」というんじゃないか、と思うんですよね。

 

 

このときわたし、

「何回も転んでうまく行かないし、痛いのは嫌だ。でもワクワクすること(一輪車に乗れること)のためには、嫌なことも我慢してやらないとね」

なんて思っていませんでした。

 

 

転ぶのも、痛いのも、全部ワクワクでした。

というか、そんな区別なかった。

転ぶたびに興奮した。痛いのなんか気にならなかった。

だって、そのたびに「近づいてる」のがわかったから。

転ぶたびに、少しずつ、少しずつ、うまくなってるのがわかったから。

全然、嫌なことなんかじゃなかったです。

乗れるのはワクワクだけど、転ぶのはワクワクじゃない、なんてことはなかった。

 

 

いや、表面上で感じていたものは、悔しさとか、怒りだったけど。

何度も泣きそうになったけど。(実際泣いたけど)

でも、そんな表面的な感情ではなくて、もっと奥底の部分。多分これを「魂」と呼ぶのかもしれないけど、それは確かに喜んでたんですよ。ワクワクしてたんです。

 

 

腹の底から、突き上げるような情熱があったのですよ。

 

 

おそらく、これを「ワクワク」というのではないだろうか。

 

 

多分「ワクワクしてるけどうまく行かない」という人たちは、ワクワク(と呼ばれているもの)を、表面的に捉え過ぎているのかもしれない。

 

 

表面的な「楽しさ」とか、ウキウキ、ルンルン、みたいな、ちょっと浮き足立つような気持ち。それだけをワクワクと捉えていたら、確かに「ワクワクしてるのに、嫌なことが起こる」「望んだ結果が得られない」みたいになるかもしれない。

 

 

多分、ワクワクって、もっと違う。

もっと強い感覚ですよ。

否応なく動かされてしまうような、情熱に似た感覚。

 

 

もちろん「ふと」みたいな直感も、それに含むんだと思うんですけど(全部が全部、こんな熱血じゃなくてねw)なんか、もっと多くのものを包括してる感覚なのではないかな、と思ったんです。

 

 

ドキドキしたり、ハラハラしたり、傷ついたり、痛みすらも、ときに「ワクワク」に含まれるんですよ。

 

「願いを叶えたいならワクワクだけではダメで、傷ついたり、怖れを乗り越えたり、そういう(嫌なことをする)覚悟もしなくちゃね」

 

その論調もわかります。(それも正しいです。見る角度が違うだけで)

でも、ワクワクしてるときって、傷だの怖れだの、そんなもんどうでもいい、って境地に陥るんですよ。

それすら超えていく想い、突き動かされる衝動のようなもの。

 

 

それを、ワクワクと呼ぶんじゃないかなあ。

 

 

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4年前、セミナーコンテストに出場したときもそうでした。

わたし、度重なる人生の失敗と人間不信で、ほとんど失語症みたいな状態になってまして。ろくに人の目を見て喋れないような状態だったのに、それでもセミナーコンテストに応募したんですよ。

 

 

自分を変えたかったから。

望む世界に行きたかったから。

同じ出場者の人に、何度も言われました。

「君は人前で話す才能は持っていない。別の道に行った方がいい」

そのたびに「うるせえ」って思いました。

 

 

結果はもちろん散々でしたよ。たぶん最下位じゃないかな。

でも、当時のわたしに「心に従って挑戦したのに、失敗して残念でしたね」なんて言ったら、キレ倒したと思います。

 

 

表面的な成功・不成功だけで見るなら、あれは確かに失敗でしょう。

「うまく行かなかった」経験でしょう。

でも、わたしにとって、あれは失敗でもなんでもないのです。

 

 

わたしが、初めて自分で決めて、自分の意思で、自分の人生を生きる第一歩となった、大きな挑戦だったのです。

わたしは挑戦したいと思った。

そして、達成した。

どこに失敗があったというのでしょう。

それまで、たったひとりの相手と話すのも覚つかなかった人間が、初めて50人の前でスピーチをしたのです。

得るものしかありませんでしたよ。

 

 

怖かったですよ。

恥ずかしかったですよ。

悔しさもありましたよ。

でも、それらを味わったことは、決して「うまく行かなかった」ことではありません。「うまく行ってる」んですよ。第一歩、踏み出せたのだから。

 

 

そして、これらの感情が「ワクワク」ではなかったか、というと、わたしはそうは思えなくて、これら全部引っくるめて「ワクワク」というか。

 

 

うーん、違うな。

それらの「マイナスな感情」を感じながらでも、身体の奥底にあり続ける想い、それを「ワクワク」というのではないかなあ。

 

 

だから、進む上で湧いてくるマイナスな感覚......怖れとか、傷とか、そういうものによって、ワクワクした想いが消えてしまうなら、奥底に灯った火が消えてしまうなら、

「それはワクワクではなかった」

ってことなのではないかなあ。単に。

 

 

「ワクワクに従って進んでみたけど、途中でそれはワクワクではなかったと気付いた」

というだけ。でも、それだって、本来のワクワクに戻るきっかけになるわけですから、決して「うまく行かなかった」のではないのですよね。「うまく行ってる」んです。

 

 

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小説「アルケミスト」では、主人公の少年サンチャゴは、夢を叶えるための道のりで、一度全財産を失っています。

 

 

でも、それも「失敗」したのではないのです。

その経験は、彼が本当の「心の声」と「エゴの声」を見分けられるようになるために、必要なことでした。その痛い経験をすることで、彼はより慎重に、心の声に耳を傾けられるようになりました。

 

 

さらに彼は、途中で戦争に巻き込まれて、命の危機に陥っています。

しかし、それも「失敗」ではないのです。

彼はそこで、命を危険に晒すことによって、学ばなければいけないことがあったのです。

 

 

全て過程です。

 

 

「ワクワクに従ったのに、全財産失いました! 死にそうな目に遭いました! 失敗です。ワクワクに従ったのにうまく行きませんでした」というのではないのです。

 

 

ワクワクに従ったから、そのプロセスを「順調に通過した」のです。

 

 

本文から、一部引用します。

彼は自分のことをどろぼうに会った哀れな犠牲者と考えるか、宝物を探し求める冒険家と考えるか、そのどちらかを選ばなければならないことに気がついた。

「僕は宝物を探している冒険家なんだ」と彼は自分に言った。

 

 

自分のことを犠牲者だと捉えた瞬間、おそらくその望みは「失敗」に終わる。

「ワクワクしたけど、うまく行きませんでした」という結末が残る。

 

 

しかしそれは、自分で選ぶことができるのではないか。

「今はまだ、うまく行くまでの過程にいるのだ」ということにするのか。

それとも「うまく行かなかった」という結末にするのか。

 

 

結局は、自分次第なのかもしれない。

 

 

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