犬は媚びるから嫌い?
あまり知られていない事実だが、わたしが最初に就いた仕事はドッグトレーナーだ。
わたしがトレーナーとして、初めて仔犬から育てた子。
ええ。ここまでブログを読んだだけでも、占い師、家庭教師、ドッグトレーナーと、わたしは既に三つもの肩書きを披露している。
最初の記事で「肩書きを持たないことにした」などと言い放っているが、本当は「千の肩書きを持つ女」とでも改名した方が適切なくらい、まだまだ多くの肩書きを有している。おかげさまで職務経歴書を書くのが大嫌いである。項目多過ぎて!
なのでもう、何屋さんとか名乗るの面倒臭いんですよ。
「結局何してる人なんですか?」とか聞かれるの、もう嫌なんですよ。
なんだっていいじゃないですか。
肩書きで人を判断する時代は終わったんですよ。
何をしているかより、どういう人かで、その人を見ましょうよ。
いつか、職業ではなく、わたしの名前そのものが肩書きとなる日を夢見ています。「美輪明宏さん」とか「叶恭子様」みたいな。(職業:戸田朝海です。って言いたいな!)
話が大きく反れました。
こんな経歴なので、当然わたしは犬が大好きだが、猫も同じくらい大好きなので(というより、犬猫に限らず爬虫類から虫に至るまでいきものは全部好き)よくある「犬派か猫派か?」という議論には興味がない。
しかし、よく猫派の方が言う
「犬は媚びるから嫌い。自分勝手な猫が好き」
というご意見には、やや疑問を感じる。
「犬は人間に媚びる」というのは本当によく聞くが、果たして本当に犬は媚びているのだろうか?
わたしは、幼少期から犬に多く触れているし、専門学校時代には学校で40頭以上の犬の世話をして、卒業後も警察犬訓練所、介助犬訓練所、動物病院に勤務して、数だけなら100頭近くの犬に触れてきたが、犬が媚びていると感じたことは一度もない。
どちらかというと、猫派の人が猫に感じているのと同じく、犬だってかなり自分勝手だ。
「従順な犬よりも、自由気ままな猫の方が好き」というフレーズもよく聞くが、犬が本当に従順だったら、トレーナーやしつけ教室はいらないはずだ。
実際に「うちの犬が言うことを聞かなくて困っている」という飼い主さんは、日本に星の数ほどいるだろう。(その割に、プロのトレーナーにしつけを学ぶ文化が、日本にあまり根付いていないところが、悩ましいところだ)
本当に、犬が従順で人に媚びる性質を持つのなら、このような悩みは存在しないはずだ。
つまり、犬が「媚びる」というのも「従順である」というのも、犬をよく知らない人の、誤ったイメージに過ぎない。
ではなぜ、そんなイメージが根付いてしまうのだろう?
それは彼らの、ストレートな愛情表現によるものではないか、と思う。
犬たちの愛情表現は、ストレートだ。
尻尾をブンブンブンブンちぎれんばかりに振り回し、全身で喜びをあらわにし、全力で突進して飛びかかり、顔中ベロンベロン舐めまくる。ときどき、嬉しさのあまりオシッコを漏らしたりする。(たまに興奮しすぎて倒れるやつまでいる)
この、過剰とも言える愛情表現は、犬が苦手な人や、犬に慣れていない人からすると「引いて」しまうものかもしれない。
では、彼らはここまでの愛情表現を、人間に「媚びる」ためにやっているのだろうか?
「媚びる」という単語を、辞書で引いてみよう。
こ‐びる【媚びる】《上一自》
1.女が、なまめかしい態度を示して男の心をひこうとする。 2.相手に気に入られようとしてごきげんをとる。へつらう。おもねる
辞書を見ると、このように定義されている。
つまり「媚びる」とは
「相手から愛されるために、相手の気に入る態度を取ること」
であり、いわば相手の愛を得るために、愛を(あるいは愛に見える態度を)差し出す、という、一種の「取引」だ。
犬が人間に、あれほどの愛を表現するのは、果たして「媚びる」ためなのだろうか?
自分が人間に気に入られたいため、愛情をもらいたいための行動だろうか?
わたしは、違う、と考える。
彼らはただ、愛しているだけなのだ。
目の前にいるヒトが、ただ好きなだけ。
好きだから「好き!」を表現しているだけ。
愛しているから「愛」を表現するだけ。
彼らは言葉を持たないから、それを全身で、全力で、ただ思いっきり表現しているだけなのだと思う。
動物病院に勤めていた頃、人間に虐待されて怪我をした犬が、運ばれてきたことがある。飼い主に、壁に投げつけられて背骨を骨折し、下半身不随になってしまったパピヨンだ。
しかし彼は、そんな仕打ちを受けたにも関わらず、ヒトを恨んでいなかった。
目が合えば嬉しそうに笑い(犬も笑います)動かない下半身を引きずって、前足だけで近づいてきて挨拶してくれた。
あのときの彼の笑顔は、愛想良く振る舞えば人間から気に入ってもらえるとか、懐いたら優しくしてもらえるとか、そんな打算に基づいたものでは、決してなかった。
ただヒトが来たから笑ったのだ。
ただ単にヒトが好きだから。
彼の下半身が動かなくなったのはヒトのせいだが、そんなことは気にも留めず、ただヒトに会えて嬉しい、という気持ちだけで笑って、近寄って身体をすり寄せてくれた。
これが、犬といういきものなのだなあ、と思う。
もちろん、全ての虐待された犬がこうではないし、ヒトに怯えたり、激しい怒りを向けるようになった犬もいる。それはそれでごく自然であり、当たり前のことだと思う。
ただ、多くの犬は、ヒトに何をされたとか、ヒトが何をしてくれるとか、そんなことは全く関係ないところで、ただヒトが大好きで、その気持ちだけで生きている。
わたしには、そう感じられる。
思うに、彼らは感情表現が豊かなのだ。
喜びがあれば、喜びを100%で表現するし、悲しみは悲しみで、怒りは怒りで100%の表現をする。(時と場合で、常にMAX100なわけではないけど)
そして、好意はだいたい120〜200%くらいの表現をする。
これが多分、わざとらしく見えて「媚びている」と誤解される要因なのだけど、彼らは表現が全開なだけで、そこに嘘は微塵もない。表現を盛っているわけでも、まして、相手の反応を期待して、作為しているわけでもない。
むしろ、飼い主がやってきたと思って、ドアの向こうを見つめて全力で振られていた尻尾が、来たのが別人だとわかった途端、露骨に垂れ下がる様子なんかを見ると、犬ってとことん嘘のつけない生き物だよな、と感じる。
わたしは、犬といういきものを見ていて、ときどき無性に「負けた」と感じるときがある。
それは、彼らの打算のない、全力の愛情表現に対してだ。
一切の見返りを期待せず、ただ目の前の相手が好きだ、という思いひとつだけで、丸ごと全身全力でぶつかっていく姿勢。
わたしは、こんなふうに人を愛することはできない、と思う。
ここまで無防備に、ここまで素直に自分を晒して、全開で人にぶつかることは、多分わたしにはできない。だから圧倒される。だから尊敬する。
そう。わたしは犬を尊敬しているのだ。
書いてて思ったんだけど、これは「パーフェクト・レボリューション」で、ミツに感じた敗北感と似てるね。
うん。こういうイキモノを、わたしは尊敬してやまないのだな。
「愛というものを具現化したら、犬のかたちになるような気がする」
と語っていたのは、確か女優の石田ゆり子さんだったと思うが、わたしも同感だ。
犬といういきものを見れば見るほど、彼らは愛そのものだという気がする。
わたしも、もし次に人を愛するときは、犬のようでありたい。
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余談ですが、石田ゆり子さんの“ネコスタグラム”、ほんと大好きで、いつも楽しみに拝見しています。
はちみつ色のハニオくんと、足袋を履いた“しろねこ”のたびちゃん、ゴールデン・レトリーバーの雪ちゃんが本当に可愛くて、ゆり子さんとの優しい日常にほっこりします。動物好きは見て♡
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