コントロールを手放せ

先日の大雪で足を取られ、左足を捻挫した。

 

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持ち前の根性なし故に(日本語おかしいw)日頃から、怪我や大病とは縁がないのだが(少しでも違和感があればすぐに休むので)今回は、珍しく、本当ーーーに珍しく、ちょっと無理をした結果、足が動かなくなった。

 

 

怪我、はもちろんだが、身体の痛みというものは、自分に何かを伝えるためのメッセージだと捉えている。今回に限らずだが、わたしは身体に何か痛みや不調、不具合があれば、そこにどんなメッセージが含まれているのか? という視点で、現象を見ることにしている。

 

 

で、今回は「足」だ。

そして、症状は「動けない」。

さらにスピリチュアル的に見ると、右半身は「能動」左半身は「受動」を示す。

 

 

今回の怪我は左足なので「前に進む」ための器官に「受動」に関するトラブルが起きている、となる。素直に読み取れば、わかりやすく「動きたくない」「我慢してやっていることをやめろ」の合図になるが、ここに違和感が残った。

 

 

こういう症状は、本来なら「嫌なことを我慢してやっている」ときに起こるからだ。

しかし、わたしは今の仕事がかなり好きで、楽しく通っている。まあ、仕事なので、我慢が全くないわけではないが、それでもかなり好条件で、好きなようにやらせてもらっている。ストレスはほとんどない。

 

 

なら、わたしは何が嫌で、足を止めたかったのだろう?

 

 

別の側面から、今回の怪我を見てみる。

今回、いつもと大きく違ったことは、病院に行って治療をしたことだ。

 

 

上にも書いているが、普段あまり大きな怪我も病気もしないので、病院のお世話になることは、ほとんどない。それに、できれば痛みや症状を、治療によって取り去ることより、その痛みや症状そのものに目を向けたいので、あまり外から手を加えないようにしているのだ。

 

 

ただ、今回は歩けないほどに痛くて、応急処置を求め、仕方なく最寄りの病院に駆け込んだ。

急な来院にも関わらず、先生は優しく、処置も適切にしていただき、お陰で回復した今では、前よりも動きがよくなったと感じるほどだ。痛みの箇所や原因もわかりやすく伝えてくださり、元々あった古傷も改善された。ずっと敬遠していたけど、病院にも先生にも、感謝しかない。

 

 

痛手があったとすれば、治療費がかかったことだ。

 

 

今月、金銭的にちょっとカツカツで、割と計画的にお金を使っていた。

必要経費がこれくらいで、そのために生活に使えるお金はこれくらいで、一日の出費はいくらまで......みたいな感じで。その日までは、ギリギリながらも何とかやりくり出来ていて、そのまま行けば、ある程度の金額が余るはずだった。

そう、その日までは。

 

 

結局、通院のため、取っておくはずだった分のお金を、綺麗に使い切ることになった。

んで、面白いんだけど、いちどその砦を崩したら、怪我でちょっと気持ちが甘えてるせいもあってか、歩けなくてタクシー使ったり、他にも欲しいもの買ったりと、普段の節制が一気に崩れた。もうどうでもいいか、って感じになったのね。

 

 

で、思ったのは「このまま計画通りに行けば」なんてないのね、ってこと。

予想外のトラブルとか、予想外の出費とか、予想外の何か、ってのは、絶対にある。「計画通り」になんて、物事は進まないんだ、っていうこと。

 

 

そして「予想外の出来事というのは、予想外のことが起こるということを、わたしたちに教えるために起こるのかもしれない」と思った。

 

 

どういうことか、というとね。

「計画通り」に物事を進めようとしているときって「物事は自分の思い通りになる」という前提に立っているよね。

つまり「現実はコントロール可能である」という意識の上に立っている。

 

 

でも、そんなことってあるわけなくて、現実を全て人間の頭の中の計画通りにコントロールなんてできるわけなくて、絶対に人間の思考を超えた出来事というのは起こる。それが「予想外の出来事」だ。

 

 

だいたい、物事をきっちりと計画通りに進めようと、躍起になっているときに限って「予想外の出来事」は起こるのだ。まるで、こちらの努力をあざ笑うかのように。

でもそれは「予想外の出来事は起こるのだから、完全に計画通り進めるなんて無理なんだよ」と、わたしたちに教えてくれる。そのための出来事なんじゃないだろうか。

 

 

つまりこれは「コントロールを手放せ」ということだったんじゃないかなあ。

そもそもわたし、計画的にきっちりカッチリ、なんて全然向いてないし、予定すらろくに立てないほど、先のことを考えて動くのが嫌いだ。(スケジュール帳は白いほどいい、という価値観で生きています)

 

 

そのくせ無理して、自分を管理して、節制して、コントロールなんてしようとしていたから「そんなんお前には無理やで」と、神様からサレンダーを促されたのかもしれない。

そう。無理して我慢していたのは、仕事ではなく、生活そのものだったのだ。

 

 

コントロールを捨てる。

サレンダー(降伏)する。

 

 

大事なことだとわかっているけど、というか、そもそもコントロールなんて不可能だとわかっているのに、未だなお、コントロールができるような気がしてしまう。そしてつい、頑張る。

 

 

しかし、そんなときにこそ、コントロール不可能な出来事がやってきて、コントロールは不可能なのだと教えてくれる。そうすると、頑張って「学ぶ」必要すらも、本当はなくて、現状が勝手に教えてくれるものなのかもしれない。

そんなことまで、何もかも、手放してしまってもいいのかもしれない。

 

 

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ほっと一息。

 

 

コントロールを手放すとは、「頑張らない」ということだ。

必要なことは、目の前の現状と、身体の感覚が教えてくれるから。それだけに目を向けて、それだけを信用して生きる。

これが「サレンダー(降伏)した生き方」なのだろう。

 

 

状況をコントロールしようとしているとき、わたしはよく「頑張ればなんとかなる」という言葉を使う。だが、今回のことで思い知らされたのは、この「頑張れば」というのは、常に五体満足で身体が健常に働くことを前提としている。

 

 

これが思い込みに過ぎないことを、今回の怪我で思い知らされた。

 

 

「頑張れば何とかなる」予定だったことでも、怪我をすれば容易に「頑張れなく」なる。

怪我をしていないときでも、わたしたちの身体はいつも一定ではない。

自分の身体のことすら、わたしたちは、本当に自由になどできていない。

思い通りにできることなんて、本当は何一つないのかもしれない。

 

 

じゃあ、努力は無駄なのですか?

頑張ってはいけないのですか?

 

 

という話ではなくてね。

これはつまり「自分という個人の小さな脳みそで思い描ける程度の『思い通り』になんかこだわるんじゃないよ」ということだ。

 

 

 執着を捨てよ、ということ。

「自分」という、小さな個人の頭の中で描けるシナリオなんて、枠が狭いのだ。

 

 

そんな、狭い脳内世界で描いた、せせこましい脳内脚本の通りに物事を進めることに執着しても、予想できる程度のつまらない結末しか待っていないよ、もっと大きな世界に行こうよ。

そう言われたような気がしてならない。

 

 

そう。

「予想外」って「予想以上」なのだ。

 

 

よく「コントロールを手放したところに奇跡が起こる」という。

何もかもを、自分一人でコントロールしようとしていると、そこに宇宙の介入(いわゆる「偶然」や「奇跡」と呼ばれる現象) が入る余地がなくなるから、ひとりで何もかもを抱え込んではいけない、とも言われる。

 

 

今回のことで感じたのは「思い描く」ことと「思い通りにする」ことは違う、ということだ。

「思い描く」ことは大切なことだ。自分はこうしたい、こういう未来が欲しい、と意図すること。これがなければ行動は生まれない。そして、行動しなければ現状は動かない。

 

 

ただ、その後のことは「思い通りにいかないこともある」と知っておく。

「予想外」のことが起こる余地を残しておいて、頭で思い描いた「シナリオと結末」に固執しない。そのことがきっと、展開を「予想以上」の場所に連れて行ってくれる。

 

 

わたしたちにできることは、きっと「種をまく」ことだけなのだ。

その種は、まいた本人にすら、どう育ち、どんな実をつけるのか、想像できない。

でも待っていれば、いずれ芽を出し、気付かないうちに成長して、予想外に枝を広げ、思いもよらない実をつけたりする。

結果をコントロールしようとするのは、例えばトマトの種をまいて「この苗からは、必ず3ヶ月後に10個の実を収穫したい」と願うようなものかもしれない。

 

 

ちなみに「コントロールを手放す」ことと「人生の舵を投げ出す」ことが少し違うのは、その結末に責任を持って、最後まで見届け、取り組むかどうかにあると思う。

 

 

結果をコントロールしないが、出た結果の責任は自分にあると知っていること。どんな結果が出ても受け入れるつもりがあること。取り組み自体を、最後までやめないこと。(やめる場合は、自分の責任においてやめる決断をすること)

これがあるか、ないか、の違いじゃないかな。(「流れに乗る」と「流される」の違いみたいなものだね)

 

 

ひょっとしたら、この辺も好みの違いで、中には最初から最後まできっちりコントロールして、思い通りの結末に持っていくのが好きなんです、という人もいるのかもしれないから「こうするべきだ」などと言うつもりはない。

 

 

ただ、あたしはどうも、コントロール不能な世界に来てしまったようなので(コントロールすると怪我するみたいなのでw)今後は手放す方向でいこうと思います。

 

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しかし、とことん頑張ることができないやつだな、わたしは。

(最近は本当にそういう自分が結構好きだ)

 

 

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ダメ人間になってしまえばいい

前回の記事で、わたしがいかにクズとして生きてきたか、という話を暴露したのだが、

 

asamitoda.hatenablog.com

 

 

実はあの記事自体が、壮大な前フリであった。

 

 

前フリをしてから、続きを書くまでにえらい時間が開いてしまって申し訳ないが、気分が乗ったときにしか書かないブログなので、そこはご了承いただきたい。今のこのブログは集客用でもなんでもない、ただの趣味ブログなので、一日3記事とかゴリゴリ更新する必要はないのだ。(起業家当時はやっていた)

 

 

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クリスマス気分のヴィーナス

 

 

 

 

 

さて、本題に戻ろう。

先日、友人が鬱になったとの報告があった。

何もする気が起きず、動こうとすると動悸がして苦しくなるのだと。

だから、しばらく休業する、という連絡だった。

 

 

わたしは「それはいいことだ」と思った。

 

 

人には動けないときくらいある。

動けないときは動かなくていいのだ。

ダメ人間のようになるときだってある。

ダメ人間であったっていいのだ。

何をやったってダメ、という時期が、人にはある。(こともある)

何もしたくない、何もできないときは、何もしなくていいのだ。

何をやったってダメなときは、ダメな人として生きればいい。

わたしがそうだったように。

 

 

それでなくても、今まで精力的に活動してきた友人のことだ。

疲れることくらいあるだろう。

自分の心が「楽しい」と感じること以外、決して仕事にしなかった彼女だが、それだからこそ、ひとつの仕事に膨大なエネルギーと、持ち前の繊細な感受性をフルに使ってきたはずだ。疲れて当然。休みたくなって当然だ。

 

 

彼女ほどエネルギッシュに生きてきていない、どころか、相当ぐうたらにまともな成果も出さずに生きてきたわたしでさえ、二年もの間、全力でダメ人間のクズ人生を送らせてもらったのだ。今まで数え切れない人に勇気を与え、人生を変え、全力で走ってきた彼女が、休んでいけない理由などあるわけがない。

 

 

好きなだけ休めばいい。

いっそダメ人間になってしまえばいい、と思った。

 

 

なにしろ、二年前、ダメ人間を開始した頃のわたしだが、そのとき

「何もする気が起きない」

「働きたくない」

「やりたいことはあるが、金にならないことばかり」

「生産性のあることに興味が持てない」

「でも働かなければいけない気がするし、どうしたらいいのか」

という、かなり人として最低感漂う相談をしたわたしに

 

 

「最高じゃないですか!じゃあ何もしないでいきましょうよ!」

と、軽やかに言ってのけたのが、彼女だからだ。

 

 

「普通はみんな、お金になるとか、稼げるとか、そんなところにばかり価値を感じて、そればかり追いかけてしまうんです」

「だから、そうじゃないところに価値を感じられる朝海さんはすごいんですよ!」

「わたしには無理です。どうしても、いくら稼げるとか、結果が出るとか、そういうところを気にしてしまう。だから朝海さんみたいな人はすごいな、と感じるんです」

 

 

彼女はそう言って、鮮やかに笑った。

まさか肯定してもらえるとは思っていなかったので、激しく面食らったが、彼女はその後もずっと、わたしの最低なエピソードを明かすたびに「最高ですね!」と大笑いしてくれた。(念のため断っておくと、馬鹿にした笑いじゃないよ)

 

 

彼女からのこの言葉は、わたしという人間を深いところで肯定する力をくれ、今の「わたし」をつくるのに、とても大きく影響している。

 

 

今のわたしが「どうぶつのように生きているだけでいい」と思うようになった基盤には、このときの「何も取り柄のない、何をやってもダメなわたし。しかもそれを改善する気もないわたし」を、心の底から肯定できたこと、

「これ(ダメ人間)がわたしなんだ。このままで生きていけばいいんだ」

このときに、そう決意したことが大きい。

 

 

このとき、この自分を否定され、なにかしらの「稼ぐ道」を示されていたら、わたしは本質的な意味で、深いところで自分を肯定することが出来ず、やはり今まで通り「社会的に認められる、金銭的価値を生み出せる自分」を追い求めてしまったに違いない。

 

 

そんな彼女が、今度は「休みたい。何もしたくない」と言い出したのだ。

わたしは否定どころか「ブラボー!!」と喝采したいくらいだった。

休めばいいじゃないか。

さぼればいいじゃないか。

今度は彼女が「ダメ人間」を体験すればいいのだ。

あわよくば、いっそ「ダメ人間」に目覚めてしまえばいい、と思った。

 

 

しかし、これには問題があった。

休むにはお金がいるのだ。

 

 

現代社会は、生きているだけでお金がかかる。

家賃に生活費に、鬱治療のための医療費。

余計なこととは思いつつも、内心気にかけていたら、共通の友人が彼女のためにpolcaを立ち上げ、クラウドファンディングを開始した。

 

 

こういうときに、すぐに動ける友人の行動力を尊敬しつつ、わたしは彼女に支援を送った。(ただしアプリを使いこなせないポンコツなので、直接口座に入金した)

 

 

銀行で振り込み作業をしながら、なぜか心の底から奇妙な喜びというか、笑いがこみ上げてくるのを感じた。

「わたしは、とてもいいお金の使い方をしている」

そんな想いが湧き上がってきたのだ。

 

 

断っておきたいのだが、決して「人助けをしているから」とか「よい行いをしているから」とか、そういった理由ではない。

 

 

一言で言うと

 

 

友人がニートするためのお金をあげる自分

 

 

という行為、自分の姿が、クッソ面白いと思ったからだ。

ふと、わたしは一体なんのためにお金を払っているのだろう?と考えたときに「友人がニートするためだ」と思ったら、すごい笑えたんだよね。この言葉の不毛感がたまらないな、と。

 

 

友人が、何も生み出さず、何の価値もなく、何の役にも立たず、社会的には最低とされる行為をするために、わたしはお金を出そうとしている。

こんな不毛なお金の使い方ってあるのかな。

でも、わたしにとっては、すごく価値のあるお金の使い方だと思ったんだ。

 

 

お金を振り込みながら、わたしは「このお金で、彼女が少しでも安心してニート生活を過ごせたらいい」と思った。

そして、同時に思った。

あ、これは過去のわたしに言った言葉だ、と。

 

 

二年間のニート生活をしながら、わたしは日々自分を責め続けていた。

「こんな自分ではいけない」

「こんなことではいけない」

「早くこんな生活はやめなければ」

「いつかツケが回ってくる。大変なことになる」

と。毎日ぐうたらで、ごろごろダラダラしながらも、心は休まっていなかった。自分を否定し続けていた。

 

 

そんな自分に、今、言ったのだ。

「安心していいよ」

と。

 

 

わたしは、過去のダメ人間だったわたしを、たった今、肯定したんだ。

わたしは友人を通して、過去のわたしにお金をあげたんだ。

それは、人のお金を使ってニートするという、世間一般的には最低な行為を、自ら推奨したということで、そうしていた自分を完全に許し、肯定したということだ。

 

 

それに気付いたとき、なんとも言えない温かい感覚が、胸に広がるのがわかった。

よく、自分のダメなところを肯定できると、他人のダメなところも気にならなくなる、肯定できる、という話は聞く。

しかし、逆もあるのだ。

他人を肯定できたことによって、わたしは自分のことも肯定できた。

それを、わたしはとても嬉しいと思った。

 

 

思わぬ副産物がついたが、この「不毛なお金の使い方」こそ「生産的なことに価値を置かないところが、朝海さんのすごいところ」と言ってくれた彼女の言葉に、最も報いていると思う。

 

 

そして、その気になれば一日で100万円の売り上げを達成できる敏腕起業家でありながら、徹底して「自分の心が楽しいと感じること」にしか、お金を介在させなかった(売る・買う両方)彼女にあやかって、わたしが彼女にお金をあげる理由も「面白いから」でありたい。

 

 

そう。面白いんだよ、不毛なことは。

それに何の価値があるとか、何の役に立つとか、いらないから。

思いっきり、不毛を楽しめばいい。

不毛である自分を楽しめばいい。

 

 

あとぶっちゃけた話、人の金でニートするって最高に楽しいので(自分を肯定した途端、この開き直ったクズっぷり)状況の許す限り、彼女には安心してニート生活を楽しんで欲しいな、と思っている。

 

 

前回も言ったけれども、何もしていない人間に対して、世間は厳しい。

もう少しくらい、ダメ人間に優しい世界になってくれればいいのに、と思うけれども、せめてわたしくらいは、誰よりダメ人間に優しくあろうと思っている。(ダメ人間代表としてw)

 

 

今は、その一環として「友人がニートするためにお金をあげる自分」も相当面白いけど、「友人がニートするために仕送りする自分」はもっと面白いな、と思ったので、毎月お金を送ろうと思っている。

 

 

何が面白いって、何年か経った後に「昔、ニートの友人に仕送りしていたことがありまして」って人に話したときの、相手の反応を想像するとすごい面白いんだよね。

 

 

まあ、それだけではなくて、実は彼女にお金をあげてから、なぜかえらいお金が入ってくるようになったので(スピリチュアルで言う「人の喜びのためにお金を使うと入ってくる」てのは、どうやら本当みたいよ)密かにそれを期待してもいる(ゲスw)

 

 

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ゴミみたいに生きていた自分

できるだけ、価値観を固定しない方向でいきたい。

 

 

なにかを「やる」ことはいいが「やらない」のはいけない。

なにかを「生み出す」のはいいが「なにも生まない」のはいけない。

「役に立つ」ものはいいが「無駄」はいけない。

 

 

世の中は、とかく「役に立つ」ことや「生み出す」ことや「貢献していること」や「行動している」ことに価値を置きたがる。

余談だが、面接の際、履歴に僅かでも空白期間があると「この時期は何をしていたのですか?」と聞かれることに辟易している。なにもしていない、というのは、それほど罪深いことなのだろうか?

 

 

確かに「役に立つ」ことや「貢献している」ことや「何かを生み出している」ことや「行動していること」「学んでいること」「労働していること」には、言うまでもなく価値がある。

「所属していること」や「何者かであること」も、そう。

「ポジティブ」や「希望」や「光」「善良」「優しさ」「正義」「好意」「明るい」こういったものも、だいたい無条件に「いいもの」とされるものだ。

 

 

では、その反対には価値がないのだろうか?

 

 

「役に立たないこと」「貢献しないこと」「なにも生み出さないこと」「動かないこと」「学ばないこと」「働かないこと」「所属しないこと」「何者でもないこと」「ネガティブ」で「絶望」していていて「正しくなく」「暗く」「人に好かれず」「闇」であることは、価値のないことで、悪いことなのだろうか?

 

 

この疑問にとことん向き合ったのが、八丈島から帰ってからの二年間だった。

 

asamitoda.hatenablog.com

 

 

一旦、自分をリセットしようと思って始めた旅だったが、旅を終えても、自分がこれからどうしたいのか、何をすべきなのか、全く見えて来なかった。

 

 

何をしたいのかわからなかったわたしは、心に従って「なにもしない」を選択した。

 

 

働かず、家から出ず、人に会わず、勉強もせず、発信もせず、ひがな一日、何もしないでぼーーーーっと過ごす日々。

完全なるクズニートである。

ちなみに、生活費は親を頼っていた。

30過ぎた健康体の身で、親の金でだらだらニート生活を行うという、本物の堕落したクズを体験した。

 

 

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そのとき、まっ先に襲って来たのが、強烈な罪悪感である。

 

 

やはり一般的な価値基準として、成人した社会人は働かなければならないし、働かないならそれなりの「正当な」理由が必要だし、働く代わりに何かをするべきだし、なにも役に立たない、何にも貢献しない、何も生み出さない人間なんて、生きる価値はない。

 

 

わたし自身もそう思っていたから、誰よりもわたし自身が、その価値観によって自分を責めた。

 

(いい年して働かないなんてどうかしてる)

(普通は仕送りするのが当然の年齢なのに、親からお金をもらうなんて恥を知れ)

(こんな自分を人に知られたらどう思われるか)

(親もこんなわたしを恥ずかしいと思っている)

(ここまでしてもらって期待に応えられないなんて、なんてダメな人間なのか)

(誰の役にも立たず生きてるなんてゴミと同じだ)

(こんなにできないことだらけで、この先どうやって生きていくつもりなのか)

(いつまでも甘えていられると思うな)

(客観的に見たわたしは、どう考えても社会のクズだ)

 

 

ここまで自分を責めるくらいなら、バイトでも何でもすればいいじゃないか、と思うだろう。

でも、それは違う、と思った。

働くのはもちろんいい。やりたいことでなくたって構わない。生きるために身銭を稼ぐのは、しごく真っ当で、当たり前のことだ。

 

 

でも、それは、罪悪感からであってはいけない。

誰かから(自分から)責められるのが嫌だから、という理由ではいけない。

 

 

その動機から動いてしまえば、わたしはまた同じことを繰り返し

「やっぱりわたしはダメなんだ」

というセルフイメージを、さらに強化するだけで終わるだろう。

 

 

そうしたら、わたしはこの先、何があっても「やっぱりわたしはダメ」というベースで行動することになる。そんな欠乏感でひび割れた土台の上には、何も造り上げられないし、造ってもすぐに壊れるだろう。そして、わたしはまた自信を失う。それでは意味がない。

 

 

わたしのやるべきことは、今の自分を否定して、今の自分(ダメな自分)でなくなるために働くことではなく、今の自分を徹底的に肯定することだ。

 

 

わたしは、目標をそう定めた。

厳密に言うと「目標もなく生きている自分」にもOKを出したかったから、目標という言葉は使わないことにした。

 

 

罪悪感に追われるからではなく、自分を責めたくないからではなく、純粋に「やりたい」という気持ちが出てくるまでは、働かないと決めた。

 

 

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野外生活をしたわけではないがw

 

 

それからのわたしは、徹底的に自分を内観し、湧いてくる自責の言葉、自分に対するマイナスイメージのひとつひとつに、OKを出していった。

 

 

働いていない自分 → それでもいい

何もしていない自分 → それでもいい

価値を生み出さない自分 → それでもいい

社会に貢献してない自分 → それでもいい

一日ごろごろダラダラする自分 → それでもいい

キツい仕事に耐えられない自分 → それでもいい

親に養ってもらってる自分 → それでもいい

親孝行できない自分 → それでもいい

人生を無駄にしてる自分 → それでもいい

向上心のない自分 → それでもいい

世の中から置いていかれてる自分 → それでもいい

社会不適合者な自分 → それでもいい

人並みのことすらままならない自分 → それでもいい

 

 

こうやって、ひとつひとつにOKを出していった。

「それでもいい」だと弱いので、一部「そんなわたしだからこそいい」に変えた。(これはなかなか効果がありました)

しかし、こうやって自分は自分を認めたとしても、社会はわたしを認めないだろう、という思いは強く残った。

 

 

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その頃、世間では、個人事業主で自分らしさを発揮して、どんどん輝いていく事業者が増えていた。

個人で活躍していた人が、どんどん会社設立していき「月7桁」という言葉が流行した。世間ではもはや、事業をするなら月商7桁を目指すのが当たり前、みたいな空気が蔓延し、お金を稼ぐ、ということに関して、みんなが肯定的なイメージを持ち始め、積極的になっていった頃だったと思う。

 

 

実際、それでお金のブロックが外れ、稼ぐ人が増えたことは、素晴らしい時代の変化だったと思う。

ただ、そんな中、月商7桁どころかマイナスな自分。お金を循環させるどころか、停滞させ、腐らせている自分を見ることが、とても辛かった。

 

 

わたしは、SNSで、他人の投稿を見るのをやめた。

自分以外の、一切のフォローを外し、友達のフォローすら外し、他人の情報は一切目に入れず、自分の内側だけに向き合った。

 

 

自分が自分に語りかけるために、自分が自分の思いを整理し、自分の目で見つめるためだけに、FBの投稿は続けた。

誰に何を思われるとか、いいねの数がどうとか、他人のことを考えるのを一切やめた。

内側から出てくる自分の言葉を拾い上げ、それをひたすら打ち込む。

ただ自分のためだけに、その作業を続けた。

 

 

とてつもなくエゴイスティックで、傲慢で、孤独な作業だったと思う。

でもわたしは、自分のエゴにこそOKを出したかったし、それで孤独になるなら、自分だけはそんな自分に寄り添いたい。自分だけは、自分の味方でいたいと思った。

 

 

今思えば、そう思いたかったから、あえて自分しか味方がいないような状況に、自分を追い込んだのかもしれない。

 

 

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そうやって、わたしはダメな自分、なにもない自分、存在価値のない自分に、OKを出していった。

何も生み出さず、消費しかしない、息をしてるだけの、ゴミみたいに生きている自分に、それでもOKを出した。

 

 

客観的に見れば、役に立たない産廃そのものの自分だが、それでも自分だけは、その生き方を肯定したいと思った。

そのために、価値観を大幅に変えたいと思った。

 

「役に立つこと」が、良い。

「貢献すること」が、良い。

「生み出すこと」が、良い。

「できること」が、良い。

「行動すること」が、良い。

「がんばること」が、良い。

「ためになること」が、良い。

「力があること」が、良い。

「目標があること」が、良い。

 

もっと言うなら、究極「価値あること」が良い。

 

 

その価値観を、逆転させたいと思った。

 

 

といっても、これらには価値がない、としたいわけじゃない。

その逆のものも「良い」としたい。

もっと、もっと言うなら、

 

 

価値があるとかないとか、いいとか悪いとか、そんな価値観自体を取っ払いたい、と思った。

 

 

価値があるからする。いいことだからする。無駄だからしない。悪いことだからしない。

その価値基準から外れたい、と思った。

したいからする。したくないからしない。

理由なんてそれで充分じゃないか。

そこに価値だとか、役に立つだとか、何かを生むだとか、稼げるとか、そんな余計なものを乗せなくていい。

 

 

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何かをする、しない、なんて、本当はもっとシンプルなはずだ。

ただの素直な欲求だ。

役に立とうが、迷惑だろうが、得をしようが、損しようが、何かを得られようが、失おうが、人は本来、やりたいことをやるし、やりたくないことはやらない。

どうぶつはそういうものだ。

 

 

それ以外のことを考えてしまうのは、思考に支配されるからだ。

行動に、なにか意味を持たせたり、価値をつけたり、損得を交えてしまうのは、にんげんだけだ。

本来は、行動それ自体に、意味も価値もない。

あるのは欲求と必要性だけだ。

 

 

だったら、わたしはもう、どうぶつでいい。

一匹のどうぶつのように、本能と欲求に従って生きよう。

人間として正しくなくてもいい。

社会人として失格でもいい。

 

 

寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、やることがなければじっとして動かないのは、ヒトとしては失格でも、動物としては自然な行動だ。

わたしは、人間としての正しさより、動物としての自然を選びたい。

 

 

今のわたしが持っている「理念」のようなものは、それだけだ。

どうぶつとして、生き物として自然であること。

思考や、社会的な決まりごとに従うよりも、肉体感覚に従うこと。

それだけを頼りに、この二年間は生きてきた。

 

 

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現時点でのわたしは、そのステージもやり切ってしまったのか、人間として新しく動き出したい気持ちが出てきている。

 

 

しかしそれも「今は動きたい」という「今」の欲求に従った結果そうするだけで、

「ずっと動けなかったわたしが、元気を回復して、行動できるようになりました!」

という成功ストーリーにはしたくない。

 

 

動くことに価値があり、動かないことには価値がない、という価値基準は、今でも持っていない。

だからこれは「ダメだったわたしがよくなった」物語ではない。そんな成長記録のような読み方は、できるならして欲しくない。

 

 

価値のために動かなくていいし、よくなるために動かなくていい。

そもそも「よく」なくていいし、良し悪しではない。

やりたいか、やりたくないか。

そのときの素直な感覚にだけ、従っていたい。

いつでも、それを許せる自分でありたい。

 

 

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「ワクワクしたらうまく行く」について。

「ワクワクする心に従って動けばうまく行く」

最近、この考え方を、多く見かけるようになった。

 

 

これは、先日紹介した図書「アルケミスト」のテーマでもあるし、バシャールという宇宙的存在が伝えている、スピリチュアルなメッセージであり、宇宙の法則と呼ばれるものだ。(ちなみにバシャールについてはよく知らないので、突っ込んで聞かないで欲しい) 

 

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

 

バシャール・ペーパーバック1―ワクワクが人生の道標となる (VOICE新書)

バシャール・ペーパーバック1―ワクワクが人生の道標となる (VOICE新書)

 

 

あ、バシャールだ!  地球をあそぶ。地球であそぶ。

あ、バシャールだ! 地球をあそぶ。地球であそぶ。

 

 

  

で、それと同時に「ワクワクに従ったけど、うまく行かない」という人も、多くいるという。なぜ「うまく行く人」と「うまく行かない人」がいるのか、それを考えてみた。

 

 

まず、なぜ「ワクワクするとうまく行くのか」だが、これはいろんな方向から話すことが可能で(といっても、真理はひとつなんだけど)全て詳しく語ると、とても長くなるから、かいつまんでいくつか。

 

 

一つは「波動」の問題。これは「引き寄せの法則」と言い換えられるけど、自分の波動と同じ波動のものが引き寄せられる、という法則だ。

 

 

だから、ワクワクしていれば、ワクワクした波動を発するので、ワクワクした現実を引き寄せる。これは人間関係にも当てはまるので「類友の法則(類は友を呼ぶ)」と言ったら、スピリチュアルに疎い人でも、実感が湧くのではないだろうか。友人関係って、だいたい似たような人たちが集まるけど、あれと同じ。

 

 

そして「魂の望み」の話。こちらは「アルケミスト」に詳しく書いてある。

人には魂があり「魂の望み」がある。頭ではなく、魂が叶えたい願い。魂が望む生き方。それは、人が生まれて来る前に、魂が決めてきた「人生のシナリオ」であり、それを叶えようとするとき、全宇宙がそれを助ける、というものだ。

 

 

なぜなら、人の「魂の願い」とは「宇宙の願い」であり、人が魂の望みに従って生きるとき、宇宙の意思と繋がり、宇宙の願いを叶えることになるからだ。それは、人はもともと宇宙から生まれたものであり、宇宙と人はひとつのものだから。

 

 

そして、この「魂の願い」の合図となるものが「ワクワク」だ。

人が「魂の願い」を生きているとき、心は「ワクワク」する。だから、ワクワクする方向に進んでいくことは、魂を生きることになり、そうすると全宇宙の応援が得られる。ので、いろいろうまく行く。

 

 

ってことですね。長かったな。

わたしの知っている知識的なことは、これくらいです。(だいぶざっくりしたことしか知りません)

こちらに関しては、旺季志ずかさんの著作「臆病な僕でも勇者になれた七つの教え」がわかりやすい気がする。

 

臆病な僕でも勇者になれた七つの教え

臆病な僕でも勇者になれた七つの教え

 

 

 

じゃー、何でワクワクしてるのにうまくいかんの?

って話なんですけど。

 

 

普通ーーーに考えて。普通に考えて、ですよ。

例えば、ずっとやりたかったバスケをワクワクしながらやってみた。

そしたら、バスケ以外の私生活が何もかもうまくいくか? 収入が増えて彼氏とラブラブになって時間的余裕が生まれるのか? って言ったら、それらとバスケは関係ないよね、ってなりますよね。

 

 

でも、バスケをやることで毎日が超楽しくなって、活き活きして、ニコニコ過ごしてたら、周りも印象がいいし、仕事も溌剌とできるだろうし、私生活がうまく行くようになることも、充分考えられるんですよね。

 

 

でも、でも、ひょっとして。

ワクワクしながらバスケをしていれば、すぐにシュートがバカスカ決まるようになるし、ディフェンスが自分を避けるようになるし、パスも気持ちよく通りまくり! 当然試合も負け知らず! みたいな意味での「うまく行く」を期待しているなら、それはないよな、ってなりますよね。

 

 

「ワクワクしてるのにうまく行かない」人たちは、ひょっとしたら

「ワクワクしてるのにシュートが決まらない」

「ワクワクしてるのに試合に負けちゃった......」

というようなことを、言っているのかもしれない。

そういう意味なら、ワクワクしていても「うまく行かない」ことはあります。

 

 

では「うまく行く」とは何ぞや? という話ですよね。

 

 

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わたしの話をしますね。

小学二年生のとき、わたし一輪車を練習したのですよ。

転校先の小学校では、みんな乗れるのが当たり前で、自分も乗りたかったから、猛練習しました。公園で、ひとりで。

 

 

何度も何度も転びました。足は打撲と擦り傷だらけになったし、何度やっても1mも進めずに倒れた。それでも、ずっとやり続けました。日が暮れて真っ暗になっても、まだやり続けました。

 

 

しまいに、見かねて母がやってきて「もうやめたら? 疲れたでしょう」と言ってきたんです。そのときに、わたしが言い放ったセリフ⬇

 

 

「邪魔しないでよ!! 今いいところなんだから!! もう少しで出来るんだから放っといてよ!!!」

 

 

えーーー、これ、客観的に見たら

「ワクワクに従って一輪車を始めたのに、なかなかうまく行かない」

という状況だと思うんですよ。

 

 

しかし、そのときのわたし、これを「今いいところ」と言ってるんですよね。これが「いい状態」なのだと。当時のわたしにとっては、それは「うまく行ってる」状態だったわけですよ。

 

 

だって「もう少しで出来る」んだから。

そこは「過程」なんです。

それを抜ければ、ちゃんと乗れるようになる。

だから、そこは「うまく行ってない」のではなく、うまく行くまでの過程、プロセスなんです。

 

 

そして、このときに感じていた感覚こそ「ワクワク」だったと思うのですね。

 

 

わたしはこのとき、転びながらでも、怪我しながらでも、痛くても、やりたい気持ちでいっぱいだった。心に希望しかなかった。

この感覚を「ワクワク」というんじゃないか、と思うんですよね。

 

 

このときわたし、

「何回も転んでうまく行かないし、痛いのは嫌だ。でもワクワクすること(一輪車に乗れること)のためには、嫌なことも我慢してやらないとね」

なんて思っていませんでした。

 

 

転ぶのも、痛いのも、全部ワクワクでした。

というか、そんな区別なかった。

転ぶたびに興奮した。痛いのなんか気にならなかった。

だって、そのたびに「近づいてる」のがわかったから。

転ぶたびに、少しずつ、少しずつ、うまくなってるのがわかったから。

全然、嫌なことなんかじゃなかったです。

乗れるのはワクワクだけど、転ぶのはワクワクじゃない、なんてことはなかった。

 

 

いや、表面上で感じていたものは、悔しさとか、怒りだったけど。

何度も泣きそうになったけど。(実際泣いたけど)

でも、そんな表面的な感情ではなくて、もっと奥底の部分。多分これを「魂」と呼ぶのかもしれないけど、それは確かに喜んでたんですよ。ワクワクしてたんです。

 

 

腹の底から、突き上げるような情熱があったのですよ。

 

 

おそらく、これを「ワクワク」というのではないだろうか。

 

 

多分「ワクワクしてるけどうまく行かない」という人たちは、ワクワク(と呼ばれているもの)を、表面的に捉え過ぎているのかもしれない。

 

 

表面的な「楽しさ」とか、ウキウキ、ルンルン、みたいな、ちょっと浮き足立つような気持ち。それだけをワクワクと捉えていたら、確かに「ワクワクしてるのに、嫌なことが起こる」「望んだ結果が得られない」みたいになるかもしれない。

 

 

多分、ワクワクって、もっと違う。

もっと強い感覚ですよ。

否応なく動かされてしまうような、情熱に似た感覚。

 

 

もちろん「ふと」みたいな直感も、それに含むんだと思うんですけど(全部が全部、こんな熱血じゃなくてねw)なんか、もっと多くのものを包括してる感覚なのではないかな、と思ったんです。

 

 

ドキドキしたり、ハラハラしたり、傷ついたり、痛みすらも、ときに「ワクワク」に含まれるんですよ。

 

「願いを叶えたいならワクワクだけではダメで、傷ついたり、怖れを乗り越えたり、そういう(嫌なことをする)覚悟もしなくちゃね」

 

その論調もわかります。(それも正しいです。見る角度が違うだけで)

でも、ワクワクしてるときって、傷だの怖れだの、そんなもんどうでもいい、って境地に陥るんですよ。

それすら超えていく想い、突き動かされる衝動のようなもの。

 

 

それを、ワクワクと呼ぶんじゃないかなあ。

 

 

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4年前、セミナーコンテストに出場したときもそうでした。

わたし、度重なる人生の失敗と人間不信で、ほとんど失語症みたいな状態になってまして。ろくに人の目を見て喋れないような状態だったのに、それでもセミナーコンテストに応募したんですよ。

 

 

自分を変えたかったから。

望む世界に行きたかったから。

同じ出場者の人に、何度も言われました。

「君は人前で話す才能は持っていない。別の道に行った方がいい」

そのたびに「うるせえ」って思いました。

 

 

結果はもちろん散々でしたよ。たぶん最下位じゃないかな。

でも、当時のわたしに「心に従って挑戦したのに、失敗して残念でしたね」なんて言ったら、キレ倒したと思います。

 

 

表面的な成功・不成功だけで見るなら、あれは確かに失敗でしょう。

「うまく行かなかった」経験でしょう。

でも、わたしにとって、あれは失敗でもなんでもないのです。

 

 

わたしが、初めて自分で決めて、自分の意思で、自分の人生を生きる第一歩となった、大きな挑戦だったのです。

わたしは挑戦したいと思った。

そして、達成した。

どこに失敗があったというのでしょう。

それまで、たったひとりの相手と話すのも覚つかなかった人間が、初めて50人の前でスピーチをしたのです。

得るものしかありませんでしたよ。

 

 

怖かったですよ。

恥ずかしかったですよ。

悔しさもありましたよ。

でも、それらを味わったことは、決して「うまく行かなかった」ことではありません。「うまく行ってる」んですよ。第一歩、踏み出せたのだから。

 

 

そして、これらの感情が「ワクワク」ではなかったか、というと、わたしはそうは思えなくて、これら全部引っくるめて「ワクワク」というか。

 

 

うーん、違うな。

それらの「マイナスな感情」を感じながらでも、身体の奥底にあり続ける想い、それを「ワクワク」というのではないかなあ。

 

 

だから、進む上で湧いてくるマイナスな感覚......怖れとか、傷とか、そういうものによって、ワクワクした想いが消えてしまうなら、奥底に灯った火が消えてしまうなら、

「それはワクワクではなかった」

ってことなのではないかなあ。単に。

 

 

「ワクワクに従って進んでみたけど、途中でそれはワクワクではなかったと気付いた」

というだけ。でも、それだって、本来のワクワクに戻るきっかけになるわけですから、決して「うまく行かなかった」のではないのですよね。「うまく行ってる」んです。

 

 

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小説「アルケミスト」では、主人公の少年サンチャゴは、夢を叶えるための道のりで、一度全財産を失っています。

 

 

でも、それも「失敗」したのではないのです。

その経験は、彼が本当の「心の声」と「エゴの声」を見分けられるようになるために、必要なことでした。その痛い経験をすることで、彼はより慎重に、心の声に耳を傾けられるようになりました。

 

 

さらに彼は、途中で戦争に巻き込まれて、命の危機に陥っています。

しかし、それも「失敗」ではないのです。

彼はそこで、命を危険に晒すことによって、学ばなければいけないことがあったのです。

 

 

全て過程です。

 

 

「ワクワクに従ったのに、全財産失いました! 死にそうな目に遭いました! 失敗です。ワクワクに従ったのにうまく行きませんでした」というのではないのです。

 

 

ワクワクに従ったから、そのプロセスを「順調に通過した」のです。

 

 

本文から、一部引用します。

彼は自分のことをどろぼうに会った哀れな犠牲者と考えるか、宝物を探し求める冒険家と考えるか、そのどちらかを選ばなければならないことに気がついた。

「僕は宝物を探している冒険家なんだ」と彼は自分に言った。

 

 

自分のことを犠牲者だと捉えた瞬間、おそらくその望みは「失敗」に終わる。

「ワクワクしたけど、うまく行きませんでした」という結末が残る。

 

 

しかしそれは、自分で選ぶことができるのではないか。

「今はまだ、うまく行くまでの過程にいるのだ」ということにするのか。

それとも「うまく行かなかった」という結末にするのか。

 

 

結局は、自分次第なのかもしれない。

 

 

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全部「かさじぞう」のせい。

「お金儲けなんかより社会貢献をしろ」

 

 

先日、ある有名な方のブログについていたコメントだ。

この方は超人気のベストセラー作家であり、講座もいつも満席、実際かなり稼いでいるようだが、この方以外にも、桁外れに稼いでいる事業者が、似たようなことを言われている場面を、何度か目撃したことがある。

 

 

まず、現代日本が経済社会である以上、経済を回すことは絶対に必要だ。

つまり、お金を稼いで経済活動を活発にしていくことは、これ以上ないほどの社会貢献になっているはずだ。

 

 

なぜか、ボランティアだけが社会貢献だと考えている人も多いが、無償でやれば社会貢献、有料でやったら社会貢献ではない、というのはおかしな話だ。

 

 

もちろん無償で人を助けることも社会貢献だが、多額のお金を稼いで国に高額の税金を納めることも、巡り巡ってそれが国民の暮らしに還元されることを思えば、こちらも立派に人の役に立っている。

 

 

しかし、それ以前に「お金を取る」こと自体を、まるで有害な行為であるかのように思っている人も、少なくないように思う。「ビジネス」とか「お金儲け」「稼ぐ」という言葉に、アレルギー的な嫌悪感を持つ人も多い。

 

 

それだけではなく、それが高じて、お金を多く稼いでいる人は、それだけで悪人だ、と決めつけている人までいる。冒頭のコメントを送ったのも、おそらくそういう人だろう。

 

 

で、それはなぜだろう? と考えてみた。

そして、ふとピンと来た。

 

 

これは、昔話「かさじぞう」に、端を発するものではないかと。

 

かさじぞう (松谷みよ子むかしむかし)

かさじぞう (松谷みよ子むかしむかし)

 

 

 

 

昔話の「かさじぞう」は、みんな知っているだろうが、おおまかな話の流れはこうだ。

 

昔あるところに、正直で善良な貧しいおじいさんとおばあさんが住んでいて、おじいさんは笠を売り歩いている。しかしある雪の日、全く笠が売れなくて、おじいさんは売れ残った笠を、お地蔵さんにかぶせてあげる。翌朝目覚めると、家の前に金銀財宝が置いてあり、遠くに笠をかぶったお地蔵さんが去っていく後ろ姿が見える......

 

というものだ。

 

 

かさじぞうに限らず、舌切り雀でも、花咲かじいさんでもそうだが、昔話の主人公は、大抵「正直で善良」で「貧しい」がセットになっている。

なお、だいたいその対比として「欲ばりじいさん」みたいな人がいて、その人は悪人として描かれている。

 

 

このせいじゃないだろうか。

わたしたちは、幼少期に、これらの昔話によって「欲を持つことは悪いこと。いいひとはみんな貧しい」と刷り込まれてしまうのだ。

 

 

そう。全部かさじぞうのせいだ。

 

 

しかし、ここに大きな誤解があると思う。

誤解というか、矛盾というか、イメージのねじれというか。

 

 

一種の「イメージによる事実のねじ曲げ」が起こっている。

 

 

まず「昔話に出てくるいい人は貧しい」だが、これは事実だ。

だが「貧しい人はいい人」ではない。

 

 

昔話に出てくる善良な人はみんな貧しいけれど、だからと言って、貧しい人はみんな善良かというと、それは違うのだ。

そもそも「いい人」であることと「貧しさ」には、なんの関連性もない。

実際には、善良な大富豪もいれば、貧しい極悪人だっている。それは、冷静に世間を見渡せば、誰にだってわかることだと思う。

 

 

だが「いい人は貧しい」というイメージが強烈につきすぎていると、貧しい人は全員いい人であるかのような、逆にお金持ちは全員悪人であるかのように、思い込んでしまう。

 

 

あと、昔話に出てくる「欲ばりじいさん」は「金持ち」ではなく、善良なじいさんと同じくらいの貧乏である。(隣に住んでるし)

 

 

しかも、彼らは「隙あらば人の金や財宝を盗んだり、奪い取ろうとするセコい盗人体質」なので、欲ばりじいさんを見て「お金を欲しがる人は悪人」とするのも間違いだ。

欲ばりじいさんは、欲張りとは別に「人のものを盗む」という(あと経歴詐称とか)ルール違反を犯している、れっきとした「悪人(悪いことをした人)」である。

 

 

ちょっとわかりにくいかな。

つまり、本来「欲ばり」であることに「悪人」は含まれていないよ、ってことね。

 

 

「欲ばりという悪」なのではなく「欲ばりであると同時に悪」と言ったらわかるかな。「欲ばりであることが悪」なのではなく「欲ばりな人が、たまたま悪人でもあった」というか。 

 

 

「善良」と「貧乏」が本来結びついていないように「欲ばり」と「悪」も、本来結びついていないよ、ってこと。たまたま昔話には「欲張りな悪人」がしょっちゅう出てくる、というだけね。

 

 

そのため「欲ばりな人は悪人だ」というイメージが残ってしまいやすいんだけど、実際には「欲ばり」であることと「悪人」であることも、全く関係はない。

欲ばりは、ただ欲望が強いだけ。それ自体は悪いことでもなんでもない。

 

 

まして「金持ちは悪人である」というのは、全くの誤解だ。昔話にさえ、そんなエピソードは書かれていない。

 

 

強いて言うなら、桃太郎の鬼は、村人から奪ったお金で贅沢していたのだったかな。あとは、なんか弱い人からお金を巻き上げる野党とか。苛税を布く領主とか。

そういうのを見てると「お金持ち=弱い人からお金を巻き上げる人」のイメージはつくか。なるほど。(こちらは昔話より時代劇かもしれない)

 

 

しかし、これも偏った描写による偏ったイメージで、物語の中には「弱者から金を巻き上げる悪い金持ちや権力者」が、たまたま多く登場する、というだけのことだ。

実際には、質素倹約を旨とし、粗食で贅沢を禁じて財政を立て直した将軍なんかも、日本にはいたわけでね。

 

 

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金の錦鯉

 

 

そう考えると、お金を持っているかどうかと悪人であるかどうかも、一切関係がないのがわかる。お金持ちの悪人もそりゃいるだろうが、お金持ちの善人もいるわけで、そこは実際には関係がない。それはただのイメージだ。

 

 

多額の寄付をするセレブだって、たくさんいるしね。

いや、あれは売名行為でしょう?

そう言ってくる人もいるかもしれないけど、冒頭の「社会貢献」という点で見れば、動機が何であれ、貢献の度合いはすごいよね。だって、そのお金で助かる人がたくさんいるんだもん。

その寄付によって助かった人からすると、そのお金がどういう目的で出されたものかなんて、あんまり関係ないんじゃないかな。

 

 

あと、人の行為を勝手に売名だと決めつけてるのも、あまりに一方的だ。

ボランティアは売名行為にならないの?

一般の人がボランティアをして「こんなボランティアやってまーす」とビラを配ることは、売名行為にならないの?

有名な人がやったら売名行為で、無名な人が同じことをしたら社会貢献なの?

お金持ちがやったら売名行為(何か悪い魂胆のある悪い行為)で、貧しい人がやったら社会貢献なの?

 

 

それは「その人にお金があるか、ないか」で決まるものなの?

その人が「お金を持っているかどうか」で、行為の善悪が決まるものなの?

 

 

そうだとしたら、それはあまりにも「お金」というものに縛られ過ぎてはいないか。

 

 

なんでみんな、そんなに「お金」を敵視するの?

なんでみんな、そんなに「お金」を悪者扱いしてるの?

 

 

それは、今まで話してきたように、幼少期に植え付けられたイメージもあるかもしれない。(それは結構、かなり強烈なのかもしれない)

 

 

だけど、思ったんだけど、みんな悔しいんじゃないかな。

 

 

自分だって人助けがしたい。もっと社会の役に立ちたい。

でも、日々の仕事やボランティアでは、本当に細々と、僅かな人を助けるのが精一杯で、思うような貢献ができていない。

 

 

さらに、お金がないせいで、物事が立ち行かなくなる場面も、本当に多々ある。

 

 

なぜ知っているかというと、わたしも昔、動物関連のボランティアに多数参加したからだ。介助犬など、補助犬の育成は、ほとんどが寄付で成り立っているし、捨て犬の保護施設を手伝ったことも、何度もある。

 

 

みんなお金がない。

お金がなくて、それなのに労働は過酷で、それでみんな疲弊していく。

みんな夢や理想があったはずなのに。

動物たちを助けたい。困ってる人を助けたい。そんな純粋な想いがあったはずなのに、日々に忙殺されて、自分たち自身ががお金に困り過ぎて、どんどん疲れた顔になっていく。

 

 

ボランティアの場面って、結構な絶望感が漂うところも少なくない。もちろん、全部が全部、そうじゃないだろうが。

 

 

そんな中、数千万円とかをポンと寄付するセレブを見たら、すごく悔しい思いをするかもしれない。自分たちがこんなにも苦しんでしていることを、いとも簡単に、軽々と行われたら、それはとても嫌な思いがするかもしれない。

 

 

それも、労働力ではなく、お金で。

自分は動かないのかよ。財布から金出すだけかよ。

いーですね、お金持ってる人は。楽に簡単に人の役に立てて。どうせ自分のための売名行為のくせに。わたしたちほど、人を助けたいなんて、強く思ってないくせに。

わたしたちの方が頑張ってるのに。

わたしたちの方が大変な思いして、歯を食いしばってやってるのに、お金持ちは片手間にできちゃうんだから、手軽でいいですよね。どうせ動機も手軽なんでしょ。

 

 

こんなふうに、拗ねたくなるかもしれない。

 

 

これは、多分「お金を出すことは簡単だ」と思っているからだ。

でも考えてみて欲しい。

本当に、お金を持っていたら、人のために出すのは「簡単」だろうか?

 

 

例えば、わたしが月収20万円だったとする。

まあ、この額を多いとするか少ないをするかは人によるだろうが、目の前の人が月収10万円だった場合、どう考えても、わたしの方が多く持っていることになるだろう。

 

 

では、その人のために「じゃあ2万円あげるわ」と、言えるだろうか。

10万円の人と比べたら、20万円の人は「お金持ち」だ。

でも、その人がいくら困っていたからって、見ず知らずの人に、自腹を切ってお金をあげられるだろうか?

 

 

20万円と10万円じゃあ、そんなに差はない?

じゃあ、月収1万円の人だったら?

ちなみにこの境地は経験があるが、月収1万円から見ると、20万円持っていたら大金持ちだ。「20万円もあったら、まじで何だってできるじゃん」と思っていた。寄付くらい余裕で出来るだろ、とも思っていた。

 

 

じゃあ、実際に20万円持っている人が、気軽に、簡単に、人にお金をあげられるものだろうか?

 

 

5万円は多すぎる?

じゃあ5千円だったら?

500円だったら?

 

 

いくらなら、人に「気軽に」「簡単に」お金をあげられる?

 

 

この感覚って、20万円が2千万円になっても、そんなに変わらないんじゃないかな。

まあ、2千万円持ったことがないから、あくまでも想像なんですが。

 

 

月収1万円が20万円に変わったところで、わたしは人にお金をあげることが「簡単」になんてなりませんでしたよ。

やっぱり、どこか惜しい気持ちが出てくるし、減ってしまう怖さも出てくる。あくまでも、わたしの場合ですけどね。

 

 

それって、2億円のうちの5千万円でも、同じなんじゃないかなあ。

いや、2億じゃなくて、もっと数十億だよ、と言うかもしれないけど。

 

 

持っている金額がいくらになったところで、人に自分のお金をあげられるかどうかは、持っている金額ではなく、その人の「人間性」で決まるんじゃないかなあ。

 

 

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おそろしく金運の高い、富士山麓にある新屋山神社

 

 

お金がどれほど可能性を持っていても、それを使うのは人間だ。

その人が、お金をどのように使っているか、だ。

お金を悪用する人もいるだろう。

でも、お金が「悪」なのではない。

 

 

お金、それ自体に善悪があるわけではない。 

お金を持っているから「悪」なのでもない。

そこに善悪の概念はない。

 

 

わたし自身、お金がない悔しさを味わったことがある。

なにも買えない惨めさ。

なにもできない無力感。情けなさ。

嫌になるほど、それらを味わったことがある。

お金持ちを羨んで、妬んだこともある。

お金を悪用する人を憎んだこともある。

 

 

でも、それら全部「お金」の罪ではない。

お金そのものは、何も悪くない。

お金を持つことそのものにも、何も罪はない。

 

 

お金はただの道具だ。

「お金」という、ただの便利な道具に、過剰な意味を持たせすぎないようにしたい。

それがきっと「お金に振り回されない」ということだ。

 

 

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「本の背表紙に呼ばれる」の上を行く体験

本好きな人間なら、一度は経験しているかもしれない。

「本の背表紙に呼ばれる」という現象がある。

 

 

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「本と目が合う」と、言い換えてもいいかもしれない。

本屋さんで、並んだ本を当てもなくさーーっと眺めているときなどに、何故かある一冊の本に、吸い寄せられるように目が止まる現象だ。

 

それが、ただ「気になった」というレベルではなく、まさに運命の相手に出会ったときのようにビビッときたり(運命の相手に出会ったことないけど)目が合った、と表現したくなるほど、バチッと強く惹き付けられる感覚があるのだ。

 

 

こちらから気になったのではなく、本の方からコンタクトされたかのような、強烈な感覚。だから「呼ばれる」と表現する。

 

 

わたしは過去に何回か「呼ばれる」体験をしている。

なぜか、今まで全然読んだこともない、興味もないようなジャンル、知らない筆者、特に惹かれる要素のないタイトル、であることが多い。

しかし、読んでみると引き込まれるように面白く、そのときの自分に必要な情報がピンポイントで含まれていたりする。

 

 

なぜこんな現象が起こるのかわからないが、一種の引き寄せとか、サインとか、そういうものなのかもしれない。

 

 

それで、実はわたし、この「背表紙に呼ばれる」の上を行く体験をしたことがある。

 

 

ある日、仕事帰りに本屋に寄って、物色していたときの話である。

当時は、帰り道に深夜まで開いている本屋があったので、仕事帰りに寄って、目的もなく本を見て回るのが習慣になっていた。本が並んでいるのを眺めるだけで癒される気持ち、本好きなら理解してくれると思う。

 

 

その日もいつものように、純文学と海外小説の棚を、なんとなくぼーーーーっと眺めていた。そのうち、眺めながらふと気付いた。

 

 

手の中に、いつの間にか本が握られていたのだ。

 

 

ビックリして、わたしは本を二度見した。

(わたし、この本をいつ取った!?)

何度思い出しても、本を手に取った記憶がない。

新手のスタンド攻撃かと思った。

 

 

ぼんやりしていたのは事実だが、手の中の本を見ても、どう見ても知らない作者の本で、わたしは海外の作家にあまり興味がないし、タイトルも初めて見るものだった。

つまり、前から気になっていたのを、無意識のうちに覚えていて手に取った、とかではない。

 

 

しかし、読んでみたら惹き込まれた。

目が勝手に文字を読み進み、意識が世界に入り込んでいく。

そこに書かれていることは、不思議な世界観で、今までの自分には全く馴染みのない価値観だったけれど、不思議と深く納得する自分がいた。

 

 

そこに書かれていたのは

「人が夢を叶えようとするとき、宇宙は必ずそれを助ける」

という「宇宙の法則」や「真理」を伝えるものだった。

 

 

いわゆる「スピリチュアルな世界」は、それまでのわたしには馴染みのないもので、書かれているのは不思議なことばかりだったが、なぜか読み進むほどに、震えが来るほどの喜びが湧き上がって来た。

 

 

自分の感覚を信じて生きていいのだ。

やりたいことを叶えていいのだ。

それをすると、宇宙から応援されるのだ。

 

 

このメッセージに痺れた。

そしてわたしは、本に書かれている通り、家庭教師として独立するため、勤めていた塾を辞めた。

 

 

ええ。

仕事を辞めました。

本に影響されたからです。

 

 

え、いや、いくらなんでも。

いくら、いい本を読んで感動したからって、いきなり影響されて仕事やめたりします?

 

 

これを読んでいる常識的なあなたは、ひょっとしたらそう思ったかもしれない。

しかし、そんなあなたは、ぜひこの記事を読み直して欲しい。

 

asamitoda.hatenablog.com

 

ええ。

わたしは、こういうことを一時の衝動や思いつきで、平気で実行してしまうやつなんです。

 

 

馬鹿なんですよ。

 

 

さて、話を元に戻す。

わたしの人生に、それほどの影響を与えた本のタイトルです。

 

 

アルケミスト

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

 

パウロ・コエーリョの名作です。

 

スピ好きなら、一度は読んでいると思うし、わたしと同じくバイブルにしている人もいると思う。多分「星の王子様」と並ぶくらい、好きな本に上げる人、多いんじゃないかな?

 

 

「宇宙の法則」を、わかりやすく記した本であり、錬金術で言う「真理」や、今は多くの人が実践し、伝えている「感覚に従って生きる」ということ、魂の望む生き方をすることの極意が書かれています。

 

 

わたしが一瞬で、人生のレールを乗り換えてしまうほど、影響された本です。

価値観がガラリと変わった......と思っていたけど、本当は「思い出した」というのが正しいのかもしれない。

今でも、何度も何度も、繰り返し読んでいます。

 

 

あの日、この本がいつの間にか手の中に入っていなければ、わたしは別の人生を歩んでいたかもしれない。(いつかは同じ道に来るのだとしても、もっと遅くなったかもしれない)

 

 

手の中に突然入っていたことには驚いたけど、やはりわたしは、あれは本の方から手の中に入ってきたのだと思っている。

きっと、そんな掟破りな(物理法則に逆らう)ことをしてでも、わたしに読ませたい本だったのでしょう。(誰が? たぶん神様か、わたしの守護霊か、あるいは本自身が)

不思議な話だけど、今ではそれがしっくり来ている。

 

 

で、なんでこんな話をしようと思ったのかというと、前回の記事で錬金術師の話が出たとき、ハガレンステマはしたのに、この本のステマを忘れたからだ。

 

asamitoda.hatenablog.com

 

せっかくなので、丸々一記事使ってステマしました。

相変わらずステルスの意味を全くわかっておりませんw

 

 

冗談は抜きにして、とてもいい本です。

 

 

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現代における、魔女という生き方

最近よく言われる言葉に「前世、魔女でしたよね?」がある。

 

 

これ、第一印象を表す言葉としては、決してメジャーじゃないと思うんだけど、こんなにしょっちゅう言われるということは、そうなのかもしれないな、と思う。

それも、わたしの尊敬する「人を見る目」には特に信頼を置いている方と、龍の姿が見える本物の能力者に言われたので、どうにも疑いようがない。(気がする)

 

 

以前、ふざけて「魔女」という肩書きを名乗っていたが、人に名乗ったときの反応は概ね「あ〜〜〜(納得)」とか「すごいですね!」というもので、引かれたことはあまりなかった。(気がするだけかもしれない)

 

 

魔女と名乗って納得されるってすごいな、と思うんだけど、よっぽど似合うんだろうなと、自分でも思う。

 

なので、調子に乗って、こんな写真まで撮ってしまった。

 

 

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魔女、といっても、歴史上「魔女」と呼ばれた女性たちは、全員が全員、魔法使いだったり、黒魔術を嗜んでいたわけではない。

 

 

むしろ、彼女たちは自然と調和し、自然の声を聞き、薬草を育て、自然療法に通じ、喧噪から離れて、静かにひっそりと暮らしていたように思う。

 

 

梨木香歩の「西の魔女が死んだ」という小説があるが、あのおばあちゃんの暮らしが、いわゆる「魔女」の生活だったのだろう。

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ

 

 

 

魔女と言えば「魔女狩り」を連想する。

かつて、迫害され、虐殺され、見せしめに火あぶりにされた人たちだ。

 

 

魔女たちが迫害された理由は、男性による、男性が支配する、男性主権の社会を作るために邪魔な存在だったからだ、と言われている。

 

 

ジャンヌ・ダルクの例がわかりやすいが、魔女と呼ばれ火あぶりにされたのは、魔術に通じる人ではなく、社会に影響力を持つ女性だ。

民衆に人気のある女性、あるいは、物事の本質を見抜き、真理に通じ、支配者層による洗脳に気付いてしまう女性。

そうした「世の中を変えてしまうおそれのある女性」が、「魔女」というレッテルを貼られて、迫害された。

これが「魔女狩り」の真相、なのだと思う。

 

 

ちょうど、天動説が信じられていた時代に、地動説を唱えて裁判にかけられたガリレオ・ガリレイのように。神が己の姿に似せて人間を創りたもうた、というキリスト教の教えに逆らって、進化論を唱えたダーウィンのように。

 

 

余談になるが、錬金術師がやはり「黒魔術」と混同されて迫害されたのも、全く同じ理由だ。錬金術と言えば、不老不死の賢者の石や、人体蘇生術、ホムンクルスなど、いかがわしいイメージがあるが、それは意図的に操作されたもので(実際にそれを研究していた人はいるんだろうが)元を正せば、錬金術とは学問だ。

 

 

錬金術の目的は「真理を知ること」にある。

真理とは、世の中の仕組みを指す。この世界は、人間は、自然は、宇宙は、どのようにできているのか。それを探求するのが錬金術だった。

そこから、方向別に分野が分かれ、科学、物理学、化学、生物学、数学、宇宙学、遺伝子学......と、より詳しく「学問」として成立していった。

だから、錬金術とは、あらゆる学問の原型だ。

 

 

ちなみに「真理を知る」という概念は、哲学や心理学、宗教学やスピリチュアルなど、目に見えないものまで含んでいたために、若干怪しいイメージがあるのだろうが、最近の量子物理学などを見る限りでは、サイエンスも一周回って、錬金術に近くなってきたなあ、と感じる。

やはり真理というものは、突き詰めれば、行き着く場所はひとつなのだろう。

 

 

ついでに、これももうすぐなので貼っておく。ステルスしてないステマw

個人的に松雪泰子さんのラスト姐さんが美し過ぎて観たすぎる。

wwws.warnerbros.co.jp

原作も。

 

 

話が反れたが、錬金術師も同様に、キリスト教と神の名の元に民衆を支配する目的の権力者から嫌われ、反社会的であるとされて迫害された。盲目的に民衆を支配するためには、真理など知られては困るのだ。

そういう意味では、彼らも魔女と同じである。

 

 

そして、そういう性質……つまり「真実を口にしたために迫害された者」を魔女と呼ぶのなら、わたしにも確かに、似通った魂が宿っているという気はする。

 

 

何しろ今までの人生、大多数とか、普通と言われるカテゴリーの中にいられた試しはない。

 

 

例えば、クラスの中に好きな人がいるのが普通、とか、決まった友達といつも一緒に行動するのが普通、とか、相手に合わせた発言をするのが普通、とか、褒められたら謙遜するのが普通、とか。一度も共感できたことはない。

 

もっと言うなら「みんながやっていることを、みんなと同じようにやるのが当たり前」とか、全く意味がわからない。

「人と違うことすると変な人だと思われるよ」とかも、意味がわからない。変と思われたって死なないし。(逆に「変な人」と思われないために、やりたくもないことやって楽しいの?)

 

 

「常識」と呼ばれているものが、実際にはどこにも存在しないことは、小学生の頃には知っていた。家が転勤族だったからだが、行く先々で「常識」は、真逆から真逆へ飛ぶ勢いで違ったからだ。

 

その地域に住んでいる人が、その狭い範囲にだけ通じるルールを、さも世界のルールかのように信じているだけだった。それがわかると、そんなものに合わせるのが馬鹿らしくなって、やめてしまった。

 

 

わたしの考えや発言が「真実」かどうかはわからない。

だが、少なくとも「大多数が当たり前に信じていること」を信じないで、自分独自の考えを持つ人間であることは確かだ。それ故に孤立したり、独特だと言われたり、おかしいと否定されたりすることも、過去には多々あった。

 

 

そういう意味では、わたしの生き方は「魔女」的だと言えるし、わたしの今の友人知人は、ほとんど全員「魔女的な生き方」をしている人たちばかりだ。

 

 

そう考えると「魔女」というのは、魔法が使えるとか、能力や姿形のことではなく「生き方」のことを言うのかもしれない。

 

 

ただでさえ、これからの時代は、情報で人を煽動したり、狭い価値観に縛り付けることが、どんどん難しくなってくると思う。ネットやSNSの普及で、個人の世界がいくらでも広がるようになったからだ。

 

 

集団に迎合しなければ死ぬと思っていた人たちも、人と違う意見を言ったり、人と違う生き方をしている人が世の中には山ほどいることも、それで死ぬどころか幸せそうに生きている姿も、いくらでも知ることができる。

 

 

人は多様であることに気付く。

人と違うことは、おかしいことでも否定されることでもなく、自然なことなのだとわかる。

 

 

そうなると、これからの時代は、人と違うことを怖れず、自分の思ったことを言い、自分の考えで動く人が、もっともっと増えて行くのではないだろうか。

 

 

かつては迫害の対象になった「魔女」という生き方は、現代においては主流になるのかもしれない。そんな面白そうな時代を、楽しみにしていようと思う。

 

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ちなみに魔女と言えば、この人も好きだったなー

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C.C. (しーつー)とは【ピクシブ百科事典】

 

 

同じく魔女関連では、この作品も面白かったよ。

オリジナルTVアニメ「終末のイゼッタ」公式サイト – 西暦1940年… 少女は、戦場を翔ける

 

 

ただのステルスしないステマ大会になりましたw

 

 

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